なぜ、日本人は、アジアから「西欧帝国主義」を追放したことを誇らないのか。
18世紀半ばから、イギリスの中東からインド、ミャンマーへ、フランスのインドシナ、オランダのインドネシア支配は本格化し、過酷な収奪とモノカルチュア経済の強制によってアジアは疲弊し、永遠に白人のアジア支配が続くかと思われていた。
日清・日露戦争以降の日本の中国大陸進出は、日本がアジアの「覇権国」になろうとした意志の現れである。当時の国際情勢は、日本とロシアがアジアの覇権を争い、イギリス、アメリカのアジアに対する野心が、ロシア(ソビエト)と日本を牽制しつつ、一方ではコミンテルンとともに中国の民族主義を扇動して「反日運動」をそそりながら利権の確保を図る。朝鮮は独立能力がなく、日本に併合され近代化が進められていた。辛亥革命は清朝を崩壊させただけで、国民党は安定を欠き、日本に対しては「支那事変」前後、ドイツ陸軍顧問団とドイツ製新鋭武器を得て積極攻勢と戦線拡大を望んでいた。序でにいえば、「南京事件」資料として有名な「ラーべの日記」のラーべは、シーメンス社員であり国民党に対する武器売り込みとメンテナンスに来ていた男である。
その中で、我が国が「支那事変」で止まることができず、「大東亜戦争」まで踏み込んでしまったことは、敗戦後の現在から見れば、政策判断としての反省は大きいものがある。しかし、大半の日本人は、アジア各地域から、ヨーロッパ勢力を駆逐することに大いなる「愉快」を感じていたのである。この感情を無視しては、日本とアジア近現代史の関わりは理解できない。国土、資源、人口、産業力、軍事力・・・そのどの分野で考えても「アジアの覇権国」になることが困難な小さな国が、「白人に対する黄色人種の人種的平等」という正義感に裏打ちされなければ、このような冒険には挑めなかったはずなのである。
第二次大戦中に一旦は日本によって独立を勝ち得たインド、インドネシア、ミャンマー、ベトナムは、戦後、植民地化を図って帰還したイギリスやフランス、オランダと再び戦うことになった。残留した日本兵がこの独立戦争を支援した。戦後、植民地という富の源泉を失った英・仏・蘭が日本を憎むのは当然である。しかし、敗れた日本は歴史を変えたのだ。
野田毅大佐は、鈴木敬司大佐の率いるミャンマー独立を支援する「南機関」の参謀長としてミャンマー独立義勇軍の創設に努力した。当時「オンサン」と呼ばれた「アウンサン」は、「西郷隆盛」を尊敬し続けたが、それは鹿児島出身であった野田大佐の影響と考えられる。
この本は、「戦意高揚記事」が仇となり、南京の雨花台の刑場に消えた「野田毅氏」の、ミャンマー独立に努力した「陣中日記」である。当時の一軍人が、一体どんな思いでミャンマーの独立に関わったのか。その日記の記述を読み進むとき、忘れられかけようとしている歴史の森の中の小径に踏み込んでいる自分に気づくはずである。