「泣ける映画が必ずしも良い映画じゃない」とは『子ぎつねヘレン』を見て号泣してしまった爆笑問題太田の言葉だが、この作品を見終わった時、「ああ、これがそうか」とすぐに思い出した。全く涙は出なかった。ただ心が締めつけられるような痛み、速くなった鼓動、目の前にモヤがかかったような感覚だけが残った。そしてそれらが落ち着いた時、最初に感じたのは、新海誠への愛情にも似た憧れとある種の親近感だった。この作品に限らず新海が度々批判の対象になるのは、見る側の中にかなりの割合でこの親近感を感じられない人間が存在することが原因だと思う。逆に一部の人々が彼を絶賛するのもまた、親近感が全てだと言っていいだろう。おそらくこの作品には「まあまあ良かった」という評価はないはずだ。境界線のこちら側で見ることができるか、あちら側から傍観するかで全く違った感じ方になると思う。心の隅に、かすかに、しかしいつまでも残っている何かを無理矢理映像にしたような性質の作品であるため、少し説明不足にも思えるが、この説明できていない部分は、きっと作った新海にも分からないのではないだろうか。そしてその説明できない『何か』とはおそらく、ものすごく恥ずかしい、誰にも見られたくない類の感情だ。そう考えてやっと、作品を見た後に残った新海への親近感の正体は、断片的とはいえ自身の生々しい感情を日本中に公開した勇敢さへの尊敬と、自分の中にも説明できない『何か』があることに気づいた共有感覚なのだと気づいた。ストーリーはリアリティに欠ける部分もあるが、では現実ではどうなるべきなのか、見終わって感じた共有感覚を頼りに記憶の糸をたぐり寄せてみても、なぜか何も引っかかるものがなくて驚く。経験もないのにそんな気になっていたのか、すっかり忘れてしまっているだけなのかは分からないが、それを思い出すには自分は大人になりすぎてしまったのだと気づいて、また胸が締めつけられる。きっとこの作品を素晴らしいものとして受け取ることができるのは、新海と同世代か、精神年齢の近い人間だけなのだろう。若すぎればモヤモヤした『何か』はすぐ目の前にあるし、歳をとりすぎれば色々なものを忘れ去ってしまう。今の新海誠が、今の自分に絶妙のタイミングでこの作品を届けてくれた事をとても幸せに思います。