清朝の末期における科挙制度を基準として書かれている。当時、科挙試験の前に受験資格を得るため、県試、府試、院試という3つの学校試験があり、官吏の頂点を極めるためには、科試、郷試、挙人覆試、会試、会試覆試、殿試、朝考の7つの科挙試験を経る必要があった。「八歳で入学して十五歳になるまでには、ひと通りの古典教育を終了するのが普通」というが、この間、学問の中心である「四書」「五経」の本文約四十三万余字をひと通り暗誦するのが立前であるという。これで県試のスタートラインである。
公平さ客観性の確保からか、試験には驚くべき工夫がなされている。県試では、答案作成の速度を知るため、出題後一時間ほどで係員が答案の書けた所までに印判を押すという。また、多数のものがほとんど同一の文章を書いた時には、朝廷で禁止している模範答案集で勉強したものとみなされ雷同と称して全部落第にするという。院試の第三回試験では、「第一回に自己が提出した答案の最初の数句をおぼえていて書きこまなければならない」。これにより本人確認を行うというから想像を絶するしかけである。
大変なのは受験側だけではない。郷試では受験者の答案をそのまま審査員には見せないという。「筆跡などから判断して特定な人だけを通そうと有利に採点されると困るから」である。また郷試合格後に答案の正本が北京に送られ再点検を行うというから念の入りようは半端ではない。前の試験との筆跡照合を行うことは言うまでもない。
科挙試験である郷試や会試は三年に一度しか行われない。「二十代の始めに進士の栄冠をえる者はよほど運のいい方であり、三十代でもそれほど遅い方とはいえない。」という。競争率は「生員から挙人になるための郷試は、およそ百人に一人という割合・・・次の会試は数の上では三十人に一人の合格率である」というから途方もない倍率である。