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19 人中、18人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 2.0
オカルト論には論理の破綻がある,
By カスタマー
レビュー対象商品: 科学とオカルト―際限なき「コントロール願望」のゆくえ (PHP新書) (新書)
前半の科学論は読むに値するものですが、後半のオカルト論になると専門外であるためか、いささか論理の矛盾・破綻が目立ってきます。前半で著者は「絶対に確実と言えるのは、世界が現象しているということと、それを経験している私だけである」という現象学の立場を肯定します。ところがオカルト論になると、たとえばUFO体験について「いうまでもなくこれは幻想である」と断定しますが、これは「私とその経験」以外にリアルなものがないのであれば、つねに「私にとってはリアル」ということ以外にリアルはないのであり、ある客観的な基準からある経験を幻想=非リアルであるという立場は論理的に矛盾します。 また、著者は「科学は、意識と脳との対応関係を明らかにするだけである」と主張していながら、「意識が死後に存続しないということは現代において自明となった」と書いています。しかし「肉体のある人間については、意識と脳は相関している」ということの証明は、意識が肉体なしに存続できないという証明ではありません。著者はいつのまにか「脳が意識を生成している」という因果論的な思考を滑り込ませています。また、「私とその経験」のみがリアルであるならば、「私の死」を私が経験していない以上、それはリアルなものではありえず、「他者の肉体機能が停止し、通常の手段ではコミニュケーションが不可能になった」という経験から推測されるにすぎません。死後存続の問題は、科学が扱うことの不可能なテーマであることは、著者の科学論からは当然に帰結するはずなのですが、著者は自分の「信念」のために自分の論理を曲げています。 つまり著者は、現象学的な世界理解の意味を本当には理解しておらず、都合のいいところではそれを使いながら、いつのまにか単に自分にとっての常識にすぎないものを吟味なしにすべり込ませる議論をしています。
15 人中、14人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 3.0
研究不足を感じる,
By カスタマー
レビュー対象商品: 科学とオカルト―際限なき「コントロール願望」のゆくえ (PHP新書) (新書)
著者の科学論は評価しているが、このオカルト論はそれほどの秀作とは思えない。まずオカルトの定義があまり明確ではない。また、ある「神秘体験」は再現性があるといってそれを認めているが、そのような体験についての「訓練体系」は存在し得ないということが自明の前提となっている。しかしその根拠は何ら提示されていない。たとえば伝統的なヨーガの体系や、あるいは禅やチベット密教にしても、あるトレーニング体系によって「高次の体験」を得ることを目的として作り出されている。著者はそのような伝統との対決を避け、ただオウムのような例を取り出してそれを一刀両断にできると思っているようだが、それは著者が宗教的伝統についての知識も見識も乏しいことを示しているように思う。つまり、著者は神秘体験とは「再現不可能」な現象であり、それを再現可能にする技術があり得るという立場を批判している。しかし、そのような批判をするなら、オウムだけではなく、そのような再現可能性を信じるすべての宗教的伝統を吟味する義務があるはずである。著者はその努力をしていないし、よく研究もしないで決めつけているだけのように感じる。科学論としてはよいが宗教論としては三流以下である。
7 人中、5人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 3.0
なぜ人はオカルトを必要とするのか,
By
レビュー対象商品: 科学とオカルト―際限なき「コントロール願望」のゆくえ (PHP新書) (新書)
著者は、理学部出身の学者です。この本は、オウム真理教事件に触発されたのか、科学万能主義の現代において、なぜ若者がオカルトに惹かれるのか、という問いに対し、一つの見方を提示しています。19世紀までは現在のような制度化された科学や、学問は存在しませんでした。その代わりにあったのが、錬金術や占星術に代表されるオカルトでした。著者は、科学とはオカルトの大衆化に他ならない、と考えています。つまり、18世紀末のフランス革命までは、身分制の下で、オカルトも含め、技術の伝承は、ギルドが担い、徒弟制度の下で秘伝という形で継承されてきたのですが、身分制度の崩壊後、技術の伝承を公共化する必要が生じ、それとともに、技術を体系化する理論も必要になってきたのだそうです。この課程でオカルトの理論は、客観性と再現可能性という2つの公共性を担保に、科学となったとされます。しかし、こうして理論武装した科学も、その後巨大化と細分化を通じて、一般人には理解のできないものになってきました。その結果、客観性、再現可能性は、それを専門とする科学者の中だけでしか通用しなくなり、一般人にとっては、科学はありがたいご託宣のようになってしまったのだということです。つまり、一般人にとっては、今や科学もオカルトと変わりなくなってしまったところに、現代的なオカルトが誕生する土台ができあがってきたのだそうです。さらに、再現可能性を原則とする科学は、一回性の出来事を説明できないため、人の生きる意味はどこにあるのか、ということについて、決して答えを出すことはできないのです。このため、自分の生きる意味や、「かけがえのない私」を探すために、オカルトは意義を見出されているのだ、ということです。 確かに、科学史などを勉強すると、よく知られているように、ケプラーやコペルニクスなど、著名な天文学者も、占星術で小遣い稼ぎをしていたことは知られています。著者の主張するように、「科学はオカルトの大衆化」という認識が正しいかどうかについては、多少疑問も感じますが、現代に至る科学とオカルトとの関係を説明している点は、とても興味深いと思いました。
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