言論表現とは元来自由なものである、筈の存在である。しかるに現実には、「人権に対する配慮」を口実にした「言葉狩り」が横行していること、厳然たる事実である。深い意味はなく何気なくいった表現にもヒステリックに噛みつくしょうもない連中に振り回される出版社やTVを見るにつけ、行きすぎた表現の規制はメディアによる自殺行為だ、と思えるものは少なくない。問題は明らかな差別・誹謗中傷を意図した悪質な表現より、意図のわからぬ「自主規制」による表現の制約であり、「得体の知れぬ圧力」により言葉が葬られてしまう現状に閉塞感を覚える環境は健全なもの、とは言えない。そんな、世に多々ある、俗に言う「差別用語」を、自ら被差別地域の路地出身の著者が、路地・身体障害者・職業・その他の観点から、頻出語から死語になったものまで、様々な角度から取り上げたのが本書である。
私自身この中の身体障害者に属するが故に、「差別される側」としてそのような差別表現に敏感か、というとそうではなく、むしろ冒頭に引用されている、「差別が悪いのではない、差別に優劣をつけるのが問題なのだ」という考えのため、差別語そのものに問題を感じるものではない。むしろ「障害者」を「障がい者」などと書き替えて事足りている、障害者でない人間に対し、悪意ある偽善を感じる人間である。問題は根底にある、マイノリティーに対する無自覚的な優越意識が、言葉表現に内包されている方が問題だ、著者の上原も自己の出生を路地にあることを隠そうとしない点共通であると思える。但しこの本の中で上原が語っているのは差別語の言語学的ルーツとその今日的用法の学術的アプローチを求めたものでも差別語の誤った用法の糾弾、というジャーナリスティックな告発でもなく、あくまで「私家版」としての自身の取材とそのフィールドワークの記述である。差別語が如何にして被差別者の心情を傷つけるか、という社会的正義の声高な主張でも、差別語の意味論的価値を探求したものでもない。「浮浪者」という言葉から自分の取材したホームレスの生涯や家族関係を記したり、「学歴」という言葉から自身の家庭環境を語ったり、という「差別」という側面とは関係ない、一種のエッセイとして読むべき書物になっている。
著者は自身路地出身者であるためか、前半の、俗に言う「同和関係」の用語に関しては歴史的・学術的研究の成果がみられ興味深いが、後半の、特に職業・その他の項目になると、単なる個人のエッセイに終始してしまっていて読むに値する部分は少ない。より多くの差別語についての「差別される側の、生々しいレポート」を期待すると肩透かしを食らう。これは著者が被差別地域出身、とはいえ73年生まれと若く、大学まで出た、「比較的恵まれた存在」であることに起因するのであろうが、「差別」というものの過酷な現実を、差別語の中からえぐり出そう、というシビアな内容ではない。「差別問題」を真剣に考えよう、と思う人には向いていない書物で、「こんな差別語もあるんだ」と、気楽に読むような本であること、留意しておいた方がいい。
行きすぎた「言葉狩り」や、何かと言葉尻を捉えたがる関係団体とそれに弱腰なマスコミの対応、のような社会的現象に考察を入れた書物では、ない。「差別語」を通して著者が考えた随筆として、気楽に読まないといけない、書物である。ただ今の若い人にはわからない言葉も多いだろうが、年配の人間に公然と聞いてはいけない言葉も多いこと、注意しておく。そういう意味で教養を問われる、書物ではある。