例えば、『子供のための哲学』や『倫理とは何か』は、永井氏が何十年も考えてきたことの結晶であり、議論が整理されており、比較的分かり易い。それに対して、序文で述べられているように、本書で永井氏は、(今までの考えを踏まえつつも)これまで考えてこなかったことを新たに考えようとしている。そのため、本書は試行錯誤や脱線、飛躍に満ちており、永井哲学をよく知らない読者にはかなり読みづらいだろう(特に前半)。「悪文」であることを自ら認めている箇所すらある。また、「私」が広末涼子の「マジで恋する五秒前」を聞いている時・・・といったかなり具体的な例も挙げられるのだが、そのような具体例と極めて抽象的な思索との間を架橋する梯子(説明)が不十分であることも、分かりにくさの原因だ。
「私とは何か」や「今」という時間の不思議に興味がある人は、『子供のための哲学』の前半部や『翔太と猫のインサイトの夏休み』をお勧めする。その上で、永井氏の考えが面白いと感じたなら、この本も何とか読みこなすことが出来るだろう。
しかし、それにもかかわらず、永井哲学に強い関心を持つ者、カント認識論やマクタガードの時間論、私的言語の問題などに興味がある者にとって、本書がわくわくするほど面白いものであることは間違いないだろう。特に後半のマクタガードに関する議論。時間のB系列とは根源的なA系列が形式化(一般化)されたものに他ならないという議論は、単純だが、「今」の不思議さを痛感させてくれる独創的なものだと思う。また、ほとんどの最近の哲学者が否定する私的言語の可能性を、独特の仕方で擁護するくだりも面白い。もちろん、上に述べたような事情により、全てが説得的・論証的に論じられているわけでは決してないが。
ヴィトゲンシュタインの言葉をもじって言えば、本書は収穫の時期のテクストではなく、種をまくテクストだと言える。