今日、日本の映像音楽界を牽引する作曲家として活躍する久石 譲であるが、個人的には、過去数年程のあいだ、作曲家としての大きな壁につきあたっているように思う。
周知のように、近年、久石氏は積極的に大編成のオーケストラで演奏されることを前提とした作品を発表しているが、それらの多くが非常につまらないのである(特にNew Japan Philharmonic World Dreams Orchestraとの企画録音はどれもつまらないと思う)。
わたしは、過去20年程のあいだ、久石氏の才能に注目して、その録音作品の殆ど全てを聴いてきているが、近年におけるこうした大編成への志向性が、その魅力をひきたたせるのではなく、むしろ、殺ぐことになってしまっていることに漠然としたもどかしさを感じてきた。
先日、作曲法と管弦楽法を専門的に修めた知人にこうした感想を伝えてみたところ、非常に納得させられる説明をいただいた。
それは下記のようなものである。
久石 譲という作曲家の発想とは、基本的に、多様な楽器群を統合的に駆使する管弦楽法に則ったものではなく、あくまでも旋律と伴奏により構成される「ピアニスト」のそれにもとづいたものである。
そのために、そこには、オーケストラを有機的に響かせるために必用とされる「縦軸の発想」(オーケストラを構成する楽器間の対話を成立させるための対位法的発想)が非常に希薄である。
そのために、彼の大編成作品は得てしてつまらなくなってしまうのである。
だいたいこのような内容であった。
確かに、オーケストラとは、多様な構成要素(楽器群)により構成されるものであり、そのための音楽を作曲するとは、即ちそれら構成要素間の有機的な対話を構築することであるはずである。
しかし、久石 譲の音楽の魅力とは、本質的に、そうした複雑性を必用としない単純さと素朴さにあるために、物理的な大音量を生みだすほかには、そもそも大規模のオーケストラを起用する必要性のない音楽といえるのである。
そのため、近年の作品に顕著に看られるように、楽器の編成が大規模化すればするほど、作曲家の本質と表現が乖離することになってしまうのである。
端的にいえば、われわれは、そこに大音量が響いていることに感心はしても、そこに露になる質的な空疎に退屈することになるのである。
その意味では、今、久石 譲が意図している大編成への志向性というのは、実は彼の作曲家としての本質と魅力が最も表現しにくい――あるいは、作曲家としての弱味を最も露呈することになる――方向に自己をあえて追い遣るものといえると思う。
国外の映像音楽界では、作曲家とオーケストレイターの共同を許容する風土が成立しているが、実はそれは決して忌避すべきことではなく、管弦楽的発想という複雑な思考形態をもちあわせていない――しかし、例えば久石 譲のように絶妙な旋律家としての才能をもちあわせている――作曲家にとっては、むしろ、積極的に活用されるべきものなのではないだろうか?
そして、これまで長年にわたりこの作曲家を聴きつづけてきたひとりのファンとして言わせてもらうならば、久石 譲には自らの特性を真に活かすことのできるそうした共同作業のなかに是非活路を見出してもらいたいと思うのだ。
尚、この作品(『わたしは貝になりたい』)は、久石 譲の旋律家としての魅力が十全に発揮された傑作である。
確かに、大編成のオーケストラの可能性が十全に活用しきれていないという箇所も散見されるが、ここに表現されている旋律美は久石 譲という作曲家の魅力を最高の形態で表すものである。