天下の茶道家であった千利休がなぜ秀吉の命によって腹を切らねばならなかったのか。本能寺の変以後の日本史の巨人二人を描く長編小説です。
野上弥生子の選ぶ言葉遣いは特殊な節回しが多く見られて、私には決して読みやすいものではありませんでした。平成の世の日常では必ずしも多くの人に使われるわけではない言葉をわざわざ選び取っているのですが、それが往々にして文学的で耽美的な節回しというよりは、少なからずこなれていないという印象を与えずにはおかないものであるような気がしてなりませんでした。
それでもこの400頁を越える歴史小説を最後まで読ませたのは、利休の死の謎に対して野上弥生子が与えた答が、政治策略的なものというよりも、秀吉のあまりに人間くさい利休に対する複雑な思いに発しているものであることが少しずつ見えてきたからです。
これはひょっとするとシェークスピアの「オセロ」と大変良く似た構図をもった物語なのではないでしょうか。
秀吉がオセロ、利休はその妻デズデモーナ、そしてイアーゴーは石田三成です。
あまり詳細をここで記すことは控えますが、秀吉の次の心情が、利休への複雑な思いをよく表しています。
「あの憎く、腹の立つ、しかもかけ替えのない、そう思うことによっていっそうこころの惹かれる、それでもなお憎く、腹のたつものと完全に絶縁するには、殺してしまうほかはない」(416頁)。
利休にあえて詰め腹を切らせた秀吉。その自分でも制御することがままならない思いの発露は、現代人にも共通するものです。
一方で利休が次のように吐露する気持ちにも目がひかれました。
「人ひとりの御機嫌がどやこうと、それのみを気にして暮らすのには、私もちと草臥れました」(353頁)。
世知辛い今の世に生きる私の心にもとてもよく寄り添った言葉です。
人の世の変わることのない姿を見た思いがしました。