「慶応義塾」の創始者にて一万円札の肖像にもなっている人物・福沢諭吉。
彼は九州は中津藩(大分県)の下級武士の子として生を受けた。
時は幕末に差し掛かろうとする風雲急を告げる頃。ペリー来航以降、国内は開国と攘夷とで激しく争うようになる。
諭吉自身は中津藩の下級武士として藩内の上級武士との身分の差別に苦しんだ生い立ちがあるため、身分制度に懐疑的。
しかも母親の影響で神仏の類は信じないという現実主義者であった。
緒方洪庵が大坂で開いた「適塾」に入塾してメキメキと頭角を現していき、やがて塾頭にまでなった。
そんな折、幕府がアメリカに使節団を送ると聞き、つてを頼って一行に潜り込んだ。
この使節団が「咸臨丸」で知られる勝海舟が艦長を務めていたもの。
後に明治になってから海舟を変節漢とか非難する縁がここに出来ていたのだ。
あまり知られていないのだが、このアメリカへの使節団が帰国した後に、今度は欧州に一年掛けて使節団を送ることになり、
諭吉は通訳としての実力を評価されて、この欧州使節団にも加わっている。
一行はインド洋を越えて、スエズ運河を通りエジプトで初めてピラミッドを目にしたり、蒸気機関車に揺られながら移動したりして
フランス・イギリス・オランダ・ロシアを訪問した。だが、同じ頃に日本国内で外国人を殺傷する事件が起こり、一行は歓迎されなかった。
帰国後の国内は騒然として、長州征伐だ、大政奉還だと大騒ぎ。
諭吉はそんな世間を何処吹く風で、外国の事情を本にまとめて出版したり、私塾を開いたりしていた。
さらには幕臣に取り立てられ、三度目の海外使節団に加わって再度アメリカへ。
彼は武士でありながら政治には無関心で、年の近い「坂本竜馬」や「西郷隆盛」や「桂小五郎」が志士として国を守るために幕府を倒さねばなどと奔走しているのでさえも冷ややかな目で見ていたことだろう。
当然に明治政府設立以前には彼等とも交流はなく、かろうじて長州の村田蔵六(大村益次郎)と適塾時代の同期というくらいで交流があったくらいだった。
外国人を排斥する攘夷など外国のすばらしさを学んでいた諭吉には受け入れられず、かといって幕府のような古い体制も到底受け入れられない。
明治に時代が移っても彼は明治政府の再三の招きにも応じず、将来在野の学者であり続けた。
彼の開いた慶応義塾は次第に学生の数を増やし、その思想は多くの学生に受け継がれていく。
彼の精神は誰にも頼らない「独立独歩」であったということ。
後年に勝海舟や榎本武明を批判したのも、幕臣のくせに時代が変わったら敵方であった明治政府に平気で仕える彼等を節操がないと目に映ったからであろう。
けれど勝にしても榎本にしても決して節操無く権力になびいたわけではなかったのだが。
後年に著した「学問のすすめ」は大ベストセラーとなり、彼の葬儀には1万5,000人もの参列者が出たそうである。
但し、死因の「脳溢血」については父親譲りの若い頃からの「酒好き」が災いしたと言えなくもない。