文体の装飾とは一体何か。
自分が気に入ったものを最大限に褒めようとすると、自然と言葉の美装が必要不可欠となる。その意味で、澁澤龍彦さん、種村季弘さん、植島啓司さん等がいささか硬質で、特異な文体を駆使したことは非常に良く判る。時代の流れ(ブーム)に乗って、SMやフェティシズムの領域への接近を試みた北原童夢さん、秋田昌美さんも先人には及ばないものの、読者へ訴えかける熱意溢れる独特の文体を保持していた。(今読むと主題が抽象的なものはその熱気が希薄だ)ただ、彼らは読者が比較的入って来易い扉を作ることを忘れなかった。(全ての文章が読みずらいわけではない)
その点、相馬さんの文体にはその入口が一切ない。まず、読者ありきではなく、自分ありきのように見えるのだ。自分が書いた文体に自分で酔っているとでも言うべきか。桁外れな装飾は読み手を混乱させるだけで、作品の良さを相手へきちんと伝達する機能をはたしていない。読者に文章を読むことの快楽を感じさせない美術評論は、果たして存在する意味があるのだろうか。大いに疑問だ。