中西氏は、インドネシアのジャワ島の漁師の話を、本書の101ページで紹介している。「海の彼方に黒雲が立つのが見えたとき、漁師は、まずコーランを唱える。舟が揺れ始めるとヒンズーの呪文、転覆しそうになると仏教の経文。そして、いよいよ生きては帰れない状況になると『土着の神』に祈る。とたんに漁師は気力充実し、艱難に立ち向かう・・・」氏によれば、危機に瀕した人間は、古い宗教へと本卦還りしていき、最後は「本能」とも言える強い生命力を持つ原初の祈りに立ち返るのだという。
日本人にとって「原初の生命力を持つ祈り」とは、なんであろうか。
ミルチャ・エリア−デが言うように、もともと人間は多神教的な世界の住人である。エジプトのイクナートンが「一神教」を発明し、それがユダヤ教、キリスト教、イスラム教に発展する以前は、アラビアの民ですら岩や石、水といった自然に対する崇拝心を持ち、牛、トカゲなどの生物に神々が宿っていることを信じていた。自然に恵まれた日本人が無意識のうちに持つ多神教的感覚は、キリスト教以前のゲルマン人同様、人間本来のものである。
また、人は、根源的に持つ自分自身の力に無自覚である。しかし、著者が指摘するように、他人からはそれがよく見える。幕末から欧米諸国は日本人の宗教と行動様式を観察し、明治以降は、チェンバレンの翻訳や、ハーンの日本文化に親和的な著作によって日本人の持つ生命力の根源を探ろうとした。そして、それが「神道」と「万世一系の天皇」の存在であることに気づき、戦後、アメリカはこれを徹底的に排除しようとした。現在、中国・韓国が、「南京虐殺」や「慰安婦問題」を執拗に攻撃するのも「皇室と歩む日本文明」解体の底意を持つからに他ならない。
ところで、近代日本でのキリスト教宣布は、惨憺たる結果に終わった。この100年間、カソリック・プロテスタント併せて100万人を超えたことはない。その理由は、単純である。「日本人は、排他的な一神教が嫌いである」からである。「イエスを信じなければ、地獄の炎に焼かれるだろう」と言われれば、大半の日本人は、微笑を浮かべて「まぁまぁ、そんな極端なことをいいなさんな」と軽くたしなめることであろう。この無自覚とも言える自信が、「自分は無宗教だ」と言い、「クリスマスを祝い」「教会結婚式」をへとも思わない行動に繋がっている。
こうした日本人の感覚の根本にあるものが「神道」であり、その「第一の聖典」に当たるものが「古事記」に他ならない。
「古事記」には、「旧約聖書」の「天地創造」から「ソロモンの雅歌」にまで相当するものが全てある。ユダヤ教徒から見れば、賀茂真淵、本居宣長は、優れた「ラビ」にあたる人々であろう。
複雑な現在の多民族世界において、日本人が、自分自身をより自覚し、その来歴を説明するためには、まず自覚的に「古事記」を読まなければならないだろう。また、共著者の高森明勅氏は、中西氏の視点をよく取り出し、語らせることに成功している。