『神的批評』には期待したのだが、私は間違っていた。本書もまた90年代以降の象徴界の機能不全という症状を示す症例に過ぎなかった。
「自分を愛するように他者を愛せ」という命法は自と他を等値しており、非対称性が消去されている。「自分が自殺するようにおまえ(たち)も死ね」と言い換えることもできる。それこそは秋葉原事件の犯人の精神でもあるだろう。
誤解を恐れずに云えば、生きたい奴は生き、死にたい奴は死ねばいい。ただそれだけのことだ。おかしな共同性を持ち出すことはかえって危険だと思われる。しかも、その共同性たるや全生物にまで拡張されかねないとは……。私はオーガニックな全体性を拒否する。「愛」という想像的原理を有機的全体性にまで拡張適用させようとするのは、とりもなおさず象徴界の機能不全を示す症状に他ならない。そこからジェノサイドに至るまでの距離は意外と近い。
「私たちの究極的な使命は、自分を心から愛せるかどうかにしかない(本書p173)」このような信じ難いほどナイーヴな言葉は少なくとも私には受け容れがたい。勝手に「私たち」などと書かないでもらいたい。「あなた」と「私」は全く別のそれぞれに独立した人格なのだ。むしろ、私が共感を覚えるのは大澤の師匠にあたる福田和也の次の言葉である。「人を殺すかもしれないし、殺すだろう」。
身近に喰うや喰わずの農民がいるのに、肉食云々を真剣に考えることができるという事実こそ、宮澤賢治の特権的立場を示している。彼には良心の疚しさがある。彼は自らに対してニーチェが批判する意味での僧侶として振る舞う。
宮澤賢治におけるニーチェ的僧侶性(生に反すると言う意味での悪しき「死の欲動」)を共有せよ、といわれる理由はない。食物連鎖における人間の位置を強調することは、社会的格差や階級といった問題を隠蔽する。生物学的思考が社会科学、政治、法といった象徴的なものを隠蔽する。賢治自身にとっては自らの後ろめたさを忘却することができるのだ。
イエスの刑死を自己犠牲と解釈することはパウロ=護教的詐術である。ローマの官憲による殺人という政治的なものの存在が隠蔽されてしまう。あるいは出来事(刑死)の物語化(自己犠牲)といってもよい。
さらに崇高な自己犠牲の精神を他者に共有することを求める動きは宗教共同体の護教的論理に摩り替えられる。かくて自己犠牲は権力によって強要されるに至るのだ。実際、「雨ニモ負ケズ」に代表される宮澤賢治の諸作品は前線の日本兵に携えられるに至った。
こうして見てくると、宮澤賢治が極めてパウロ的護教的人物であることがわかってくるだろう。ニーチェ『道徳の系譜』岩波書店・ちくま書房・光文社や田川建三『イエスという男』作品社あたりを本書 と併せて読むと面白いかもしれない。
私は一度たりとも宮澤賢治の欺瞞に騙されたことはないので、最初から彼の暴力性を暴くことには興味が持てないのだ。
「神的批評」という題はベンヤミンの「神的暴力」を想起させるのだが、むしろ本書に一貫しているのは護教的=法維持的な暴力である。