次に引用する(1)と(2)を読んで、神会の主張がブッダ釈尊の教法の真義と何ら変わらないことが分かる。
(1)神会の初期の所説が掲載される『定是非論』では、崇遠法師の問に神会は“道を学ぶ者は、「頓」(瞬時・無段階)に仏性を見、その上で「漸」(時間的・階梯的)に行を修めてゆかねばならぬのだ。さすれば、今生を離れることなく、解脱を得ることが出来るであろう。”(p.69)と答え、「頓悟漸修」による即身成仏の義を説いている。ただしこの後、神会の「頓悟漸修」は、「頓悟(=見性)の肯定」+「禅定・観法の否定」に変わっていく。
(2)その理由は、<神会にあっては、「坐禅」も、「定慧」も、共に本来無限定・無分節なる本性が、本性自身を「見る」という意に外ならない。それが心を客体として「調伏」しようとする禅定・観法の行と相容れぬのは当然であろう。>(p.103)という訳である。
さらに本書では、敦煌禅宗文献と馬祖以降の禅宗文献の断絶(p.218)が示されるが、馬祖の思想が「仏はあらためて成るものではなく、自らが元々そうである所のものである。」(p.229)という仏性思想を大前提とした「即身是仏」を説くものであり、修行という概念の否定が強調されている。
釈尊の教法を整理すれば、戒・定・慧とは、慧(シュダオンの頓)⇒戒・定(阿羅漢を除く四沙門果の漸)⇒慧(阿羅漢の頓)と進むのであるから、初期の禅も馬祖以降の禅も釈尊の教法の一部を強調しているに過ぎない。