原題「Command the Morning」は旧約聖書「ヨブ記」38章12節からとられている。
「ヨブ記」は、信仰篤く善人そのものであるヨブが神によっていわれない苦しみを背負わされる物語だ。地獄の底から抗議するヨブに対して神が応えた言葉が「それではお前は朝に向かって命令したことがあるのか?」というものだった。太陽も月も星も神によって創り出され、神の言葉ひとつで朝は夜にも昼にも転じる。どの人間にもこんなことはできない。神の前に人は無力で小さなものであり、善であることに安住する意味はない。人はただひたすらに神を畏れ、神に全身全霊を預けるべき存在である。こんなところが「ヨブ記」のメッセージかと思うが、その中の一文を引いて題名としたこの小説は、核兵器を開発した人間たちの神をも畏れぬ傲慢を描く意図であっただろう。
小説中、科学者たちが原爆を製作したのは、ナチスが核兵器を開発し世界を破滅させるのを防ぐためであり、アメリカの核兵器保有が抑止力となって戦争を終結させ得る希望のためだった。日本にそれを投下することについては科学者たちはそれぞれの内面の倫理から反対をし、また葛藤をしていた。
それでは誰が原爆投下の決断をしたのか。政治判断、軍事決断の責任はアメリカ大統領トルーマンにある。しかしトルーマンは言うだろう、原爆ができていたから使ったのだ、日本本土侵攻によって失われる50万のアメリカ兵の命を救うために、と。
朝にむかって命令する準備は整った、では誰がどんな責任で命令を下すのか。小説は、このことをめぐる堂々巡りとも言える議論に、一方向、科学者たちの人間関係における決断模様を添えた点で優れていると思った。ひとことで言えば、登場する科学者たちは、夫婦において、恋愛において、「決断しない人々」として描かれている。ジェーンはスティーブとの愛を決断しないし、スティーブもまた然り、ヘレンはパーシーの腕に飛び込まず、バートはただ長年の妻モリーに甘やかされるだけである。ジェーンの初恋の人であったラーマンもまた、愛を選び取らなかった。
そこでは、各々が決断しないことが愛そのものを不幸な、実りのないものにしている。その裏メッセージに通底されながら、日本への原爆投下の決断、あるいは「投下しない」という決断から、政治家も軍の高官も科学者も逃れようとする姿がこの小説に映し出されている。まるで、そこにはいない「誰か」に判断をまかせたような。
決断しない愛があてどない不幸の穴に落ちていくように、責任のなすりあいの中で投下された原爆は恐るべき不幸をヒロシマ・ナガサキにもたらした。その決断のプロセスを戦後62年たって改めて考えることには大きな意味があると思った。