本文のp106からp171にまたがる第一部二章「神の慰めの書」は内戦で夫を失った王妃アグネスの苦悩を慰めるためエックハルト自身が書き下ろした唯一のドイツ語述作であると言われる。王妃アグネスについて詳しく知りたいと思い少し調べてみた。1281年由緒あるハプスブルグ家に12人の子供の一人として生まれたアグネスは1298年17歳でハンガリーの王アンドリュー三世と結婚した。ハプスブルグ家は15世紀から1918年まで続いたオーストリアの王家でしばしばドイツの王にもなっている。(参考までに当時のドイツはまだ現代地図にあるような国ではなかったようだ)アグネスが結婚する2年前、1296年ウイーンでrevolt,つまり反乱が起こり、後にアグネスの夫となるアンドリュー3世はアグネスの父の助けを借りてかろうじて鎮静した。1298年アグネスとアンドリューが結婚した年ドイツのアドルフ王に対し、アグネスの父が反乱を起こし,その反乱軍に夫アンドリュー3世が援軍として加わった。
3年後の1301年1月アンドリュウー3世は死去、病死との説もあるが、いずれにせよ王妃アグネスは19歳で未亡人となり、アグネスの母が建てた修道院で長い余生を送ることになる。アグネスは信心深く,敬虔な女性として描かれる一方で16世紀の歴史書には、次のような記述もある。アグネスは父親アルベルトを殺害した者たちへの復讐として、その家族、家来を含む約1000名の処罰(死罪、国外追放)を命じたと言われるが,これはスイスの反ハプスブルグ派のプロパガンダ(宣伝)によるものかもしれない。 何故ならアグネスの評判は良く、数回にわたり勢力争いの仲裁役を務めている。1333年、オーストリア、スイス間の条約制定1351年にもドイツで起きた紛争解決、オーストリア公爵とスイス連盟間の紛争解決、アグネスが当時としては高齢の83歳で亡くなるまでアグネスの兄や弟は度々アグネスの助言を求めてケーニズグフォルデンを訪れている。
さて,アグネス王妃の生誕21年前に生まれ37年早く67歳で獄中死を遂げたエックハルトの述作「神の慰めの書」を改めて読み返すと成る程と頷けることが多くなる。私はエックハルトを神秘主義者とは呼びたくない。彼は当時の教会の殻を破り、広く人々に神を知る喜びを伝えようとした。人々の塗炭の苦しみを和らげようと努めた。人々が理解し易いようにあの手この手で神を解き明かそうとした。エックハルトの元々の教えが難解であったとは思えない。もし彼の教えが一部の神学者や専門家にしか分からないほど難しかったら、彼の教えは民衆の中へは広まらず、もて栄やされもせず彼の弟子も彼自身も異端尋問に引きずり出されたりしなかったと思う。「まことの光は暗きに照る」のことばでこのレヴューを閉じたい。