2001年淡交社刊の同名本を、2006年7月に、加筆修正し、序論・あとがきと「日本人に
とって「靖国の神」とは何か」の副題を加え、文庫化した。
翌月の終戦記念日の、当時の小泉総理の靖国参拝が大きな話題になっていた時期の、
タイムリーな出版である。
錯綜する靖国論議の中、「人間を祭る神社を広く研究した著者」が「靖国神社は本来の性
格である記念館的なものに変容すべき」との政治的主張をしたものと理解でき、そこは際物
という以上に、卑怯さを感じさせる。
というのも、元の単行本は、14神社を4分類=4章で紹介しているが、ここで既に、顕彰
神と祟り神という2大分類に入りきらない例があることが露呈し、その2大分類に反して
いる靖国はおかしいという論理は破綻しているからである。そういう14神社をアンコとし、
皮に当たる前後の序論・あとがきで、靖国の特殊性や政治的主張を書いても説得力はない。
神道には統一的教義もローマ教皇庁のような機関もないから、バラバラでも当然である。
特にこの2000年間に日本人の心性は大きく変遷しているから、一つの合理的な基準を建て、
それから離れた靖国神社を貶めようとしても間違いであり、無意味である。14神社に限らず、もっと多く探していけば、益々訳が分からなくなるはずである。だから、内容的には酷くても、高橋哲哉が、神道の中に入らず、日本人としてではなく、靖国を否定しているのは、逆に「清々しさ」を覚える。勿論、正しくは、国家も民衆も会社も大名家も、神道的心性を持った日本人である以上「(他人から見れば)間違った神を祭る権利がある」のである。
同じ知恵の森文庫で著者は「京都聖地案内」、「京都魔界案内」などの怪異物を扱いながら、
妖怪を別段断罪していない。靖国が不合理ながら存続していくことが、なぜ悪いのだろう。
「従二位下」(p72)などのミスもある。