登録情報
|
「人身御供」に対し、章ごとにフォーカスの仕方を変え、一つ一つ確かめながら進んでゆく印象です。よって、若干の重複感とはしょりを感じるところはありますが、俎上に乗せにくいテーマを、慎重に、堅実に論じているのでしょう。各章の構造は以下のようになっています。
序章で、「人身御供」というものに対する民俗学のスタンスと、著者の本書での立場・狙いを示し、第1章で、尾張大国霊神社の追儺祭を事例に、近世の祭の様相とその変容の過程を検討することで、「祭」と「人身御供」の関係を語る一つのモデルを提示している。
2章以降で、1章を基としてそこで語りきれなかった問題を、他事例をさまざま取り上げながら展開する。
2章では、由来に人身御供の語りを持つ祭(それを「人身御供祭祀」と著者は言う)を担う村人達本人が、そのおぞましい物語を受容し語っていくのはどういうことかという問題を取り上げる。同時に、「人柱」と「人身御供」とを区別し、”神の食べ物”としての人身御供の意味―すなわち祭における「性」と「食(食べるということ)」を取り上げる。
3章では、岩手県・葛の諏訪神社の伝承を中心に、人から獣へ、そして魚へと変化する”贄”の変遷の過程を追いながら、殺生を罪業とする仏教的観念の関係と、祭の由来に人身御供の物語が必要とされるのは何故なのかを検討する。
4章は、近畿地方に多い「人形御供」(ひとがたごく。人身御供の代わりに人形を供える)の祭のもつ二つの問題を取り上げ、農耕社会にも殺生を伴う祭が必要であり、人形御供の祭が共同体の秩序更新を願ったものではないかと述べる。(二つの問題とは、1食べ物で人間の形を象って神に捧げる意味、2神前に捧げた人形は神の食べ物であると同時に直会の際には氏子、つまり人間が食べるという問題)
終章において、再度「人柱」「人身御供」「イケニエ」を区別しながらこれまでの議論を点検し、総括する。儀礼のなかで暴力性を排除してきた一方で、喰われることで神と一体化し、希薄化した生の実感を呼び覚まそうと願うことが、人身御供の物語が伝承されてきた理由ではないか、というのが本書におけるひとまずの結論である。
本書には「暴力の排除」が全体に通底しており、先達のさまざまな仕事が引かれています。民俗学において「暴力とその排除」が定番のテーマなのかどうかわかりませんが、「人身御供」を語るにおいて、切り口がそこだけなのかはいささか疑問を感じるところ。
祭における性の問題や、喰われる恍惚のついてなど若干触れられていますが、もっと違う面にも光を当てて欲しいと感じました。著者のこれからの仕事に期待して待ちたいと思います。
最後に個人的感想。
供儀や生贄についてのアカデミズムの体たらく―当り障りのない題材に仕立て上げる「毒抜き論」という著者の見方と、暴力性を排除してゆく祭の変容がオーバーラップして見えました。私は小学生の頃から、ここ、東京近郊のベッドタウンに住んでいますが、これといった祭もなく、土地の伝来も知りません。先祖伝来の土地との縁、土地の神との縁が切れ、神との関係が毒抜きされきった現代では、神に捧げる暴力のかわりに、意味不明な暴力や神を騙る暴力が溢れているように見えます。今後、それを毒抜きしていく力は働くのでしょうか。また、現代に喰われてしまった神(怖れ奉られる神)はどうなってしまったのでしょうか。現代社会の民俗学が気になってきてしまいました。
氏が深く関心を寄せているのは、人々が人身御供(伝承)をどう感じていたか、にある。人身御供とは、祭の過程で人間を殺し、それを神の食べ物として、神前に供えることを指す。そうした祭に潜む「暴力」もしくは「毒」を感じたとき、人は何を考えるのか。
重要なことが1つ。この世には神が存在しない。では、神前に供えられたモノを食べるのは、一体誰か…? それは通常、祭を行う側の人間だ。したがって人身御供の場合もそれと同じであるはずだ。つまり、人が人を喰らう、それが人身御供の本質なのである。
著者は柳田國男がそのことに気づいており、それでいて関心を別の方向にずらしていったと述べた上で、そうなったのは柳田が人身御供に潜む強烈な「毒」から目をそらしたからで、結果として「毒抜き」論になってしまったと指摘する。著者はこのような「毒抜き」は、実際に祭を行う側にも起こったと考えており、各地の祭にそれを追っていき(暴力の演技化、穢れの忌避)、その「毒抜き」こそが人々に人身御供伝承を受容させたのだと論証する。
他にもいくつか注目すべきことがある。普通、人身御供にされるのは女性とされる。そこで若干、女性史の様相を帯びてくる。また人身御供と人柱との間に明確な差があることを示すなど、大変興味深い1冊。ただ中盤から後半にかけてちょっと退屈な気も。そこは学術書なので我慢すべし。
|
|
|