ギリシャにアトス山というところがあって、その半島にはたくさんの東方正教会の修道院が建っており、そこで修道士たちが世俗を離れて静かな瞑想生活を送っている…
というのを、もう何年か前に『エーゲ海の修道士 ―聖山アトスに生きる』(川又一英・著)と『雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行』(村上春樹・著)の二冊で読んで知り、とても心惹かれたものの、その後これといったよい資料にも巡り合えず、いつの間にか意識の表層から消えていった。
ところがひょんなことから「アトス静寂主義」と「イエスの祈り」というキーワードがひっかかってきて、再び「聖山アトスの修道生活」というものが意識の前景に「どどん」と立ちはだかる。
…とういことで本書を購入し、読んでみた。
「アトス静寂主義」には「イエスの祈り」という心身技法があって、それとヨーガや禅との関連性はこれまでにも指摘されていたそうだけど、
今あらためて読んでみると、それはヨーガや禅というよりむしろ理論的にも心身技法としても浄土教系「南無阿弥陀仏の称名」にはるかに近い。
しかしどうやらこの近似性は情報の伝播によるものではなく、日本とギリシャという離れた場所で偶然(ほぼ)同時発生的に成立したもののようだ(日本の浄土教系は13世紀、アトスの静寂主義は14世紀に完成)。
たとえば、「イエスの祈り」はローマカトリックの「ロザリオの祈り」とは違って、極めてシンプルな「主イエス・キリスト、神の子、われを憐れみたまえ」という言葉を繰り返すだけである。
そのさい数珠状の「チョトキ」を手にするが、しかしそれを祈りの数を数えるために用いるわけではない。
またこの祈りは何らかの「現世利益」を期待して唱えるものではなく、祈りを通じて神的一体化の極みに達すると「人は(向こう側からの)恩恵により神の光(タボルの光と呼ばれる)を見るという神秘体験を獲得」(『祈りの心身技法』久松英二・著、P10)できるらしい。
これは法然・親鸞らの「称名念仏」の概念と極めて近い。
この本がとても興味深かったので、著者の訳書であるオットーの
聖なるもの (岩波文庫)も買って読み始めた。こちらもたいへん興味深い。