「社会学」という学問ほど、とらえどころのない学問はない。
ときには「人の数ほど社会学は存在する」と言われ、実際さまざまな視点からの社会学概説本は書かれているが、どれも捉えどころがない。
そのような中で、気鋭の社会学者が「社会学は何をする学問なのか」という超難問に切り込んでいる。
社会学は、各自が「意味づけた世界」である意味世界を研究の対象とする。
この「各自が理解している意味世界」を一次理論と呼び、「各自の意味世界に基づいて、人々は実際にどのような行動をとるのか」を二次理論と、かつて筆者は読んでいた。
このような形で「各自の意味付け」と「意味付けに基づく行動」を分離して、それらの作用を分析するものを以前は社会学の責務としていた。
こうした点は、初期の著作
制度論の構図 (創文社現代自由学芸叢書)や
権力 (社会科学の理論とモデル)に現れている。
だが、近年では
リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理などの著作で規範理論の意味を考察するなど、軸足を若干移しつつあった。
そして本作でも社会学をあくまでも「規範的」な学問と位置付けており、初期との差異がのべられている(「あとがき」において明記されている)
社会学の一部では、自らを「社会の外」において、そうした超越的視点から語ろうとする議論が存在する。
だが、社会学者といえども社会の中にいる以上、そうした超越的視点の足場は存在しえず、あくまでも社会の「内的視点」から語るしかない。
さて、現実の社会においては、人々の意味世界はバラバラである。
だが、共同生活を営むためには、人々が共通に受け入れられるような意味世界を作り出す必要がある。
この「共同性の問題」に取り組むのが、社会学の責務だと筆者は論じている。
このように言うと、社会学が特定の価値に傾いて客観性を失うようにも見える。
だが、客観的妥当性という志向方向性、そのための様々なプロセス(公開の討議等)はきちんと存在しており、そうした部分によって客観性は担保しうるし、他の学問もそのような形で客観性を担保していることを指摘する。
初期の「二次理論の分析」と比べると、社会学の所在が分かりにくくなってしまった印象も受けるが、対象と方向性を縛ったという意味で、本書の意味は大きいと思う。
初期の考え方を「方法論」、この本を「対象の規定」と捉えると、両者を合わせることでより一層建設的な方向に向かえるだろう。