テクノロジーが反映し全てが全自動で行われる未来都市。その分厚い壁の外には、飢えた貧民たちが横たわる。通俗的なSF小説が描くようなディストピアとしてのイメージが、日本における「ゲーティッドコミュニティ」という言葉、その語の使用にはある。本書の筆者はそれ自体必ずしも称揚しないが、まずそのような「ゲーティッドコミュニティに向けられた批判的な眼差し」に対して疑義を唱える。お前らだって、住民しか入れないマンションに住んでいるだろと(たしかに!)。加えて、「コミュニティ」や「仲良し」「交流」といったもので社会がよくなるとも思わないともいう。同調圧力という内圧(つまりKY)によっても、コミュニティの成員の自由は疎外されるのだ。
そんな筆者が打ち立てるのは代議制デモクラシーではない、その地域住民が直接的に参加する「集合住宅型デモクラシー」。そこでこそ、本書タイトル「社会をつくる自由」がかなう、というのだ。しかしどうもこれは現実的でないような気がする。
きわめて限られた地域における合意のとりつけが目的のため、議論が錯綜するということはないのかもしれないが、世の中にはいろんな人がいる、ということをこの人は忘れている。例えば、その近隣住民にヤクザがいたらどうするんだ。本書では、アーレントがアイヒマンを擁護した件を引き、銃を突きつけられたら、だれだってそこでは正義をねじ曲げるだろと力説するが、同じことだ。ヤクザさんにちょっとすごまれたら、そりゃ自分の意見をねじ曲げるでしょうよ。こういうのは、「きれい事を言うな、というきれい事」だ。
興味深いのは、後半に行くにつれ文体が、というかキャラが変わっていくことだ。後半に行くにつれ、なぜか「キレキャラ」になっていく。最後の方は怒りオヤジのように「けしからん!」と、通俗日本人論みたいになっていて残念。これはどういうことだろう。執筆途中で、なにか心境の変化があったのか。
とりあえず、☆ひとつにするほど酷いものではない。