技術決定論におちいりやすい「情報化社会」論の言説について、その内部のカラクリと破綻をとおして、それを近代産業社会が見つづける夢という形で「脱構築」してみせた明快な書。「情報テクノロジーが社会を変える」と主張しつづける「情報化社会」論の言説に対して、社会のしくみやあり方のほうが情報テクノロジーの受容の仕方を規定するのだという明確なテーゼを提示しつつ、技術決定論に対する社会学的決定論ともいえるほどの「社会的コンテキスト」重視のスタンスは、本書をつらぬいて見事に一貫している。とくに第一章の「情報化社会」論に対する「脱構築」的な切れ味と、第四章の近代産業社会の議論がきわめて明快で面白かった。
本書ほどの分析と考察が必要とされるのは、過去に膨大に産出され今なお巨大な市場を形成する「情報化社会」論がどれほど粗雑で乱暴なキャッチコピー的議論をくり返しながら「情報テクノロジーによる社会の変化」を夢=幻想のように語ってきたのか、ということが背景にあるのだろう。それに対する反省的考察という点では感服しつつ頭が下がる思いがする。読ませる論考であり、思考を活性化させるその理論展開は、刺激的かつスリリングで面白かった。
そのうえであえて二点ほど。第一に、社会のしくみ(の変化)を情報テクノロジーの効果として語ってしまう/感覚してしまう背景には、「AIアナロジーの罠」(第1章)や近代民主主義における「技術」信仰の誘惑(第4章)だけでなく、やはり人間の社会(組織)と情報テクノロジーとの間に横たわる本質的な媒介、つまり人間の社会(組織)も情報テクノロジーもいずれも人間にとって最もベーシックな「言語」的コミュニケーションの場であるという意味において、「言語としての情報」という本質的なエレメントが存在するのではないか(……この点こそは結局、他の技術テクノロジ−一般に対する「情報テクノロジ−」の固有性でもある)。そのことが他の技術決定論にも比して、とりわけ私たちに情報技術の魅力を感覚させると同時に、「情報テクノロジーが社会を変える」ことへの「信憑性」を下支えしているのではないか。いいかえると情報テクノロジーは、それが言語的コミュニケーションのベースとなる以上、その変化はやはり人間の社会(組織)の変容に相関してくるのではないか。
第二にこの点と関連して、これだけの明快な説明をうけて考え直してみてもなお、「情報テクノロジーが社会を変える」という語りに私たちが魅力を感じてしまうのはなぜなのか、いやもっと本質的に、私たちがそのことを日々(とりわけネットからSNSの登場に至るまで1990年代後半〜2000年代の日常的感覚において)実感せざるを得ないのはなぜか、という問題。それは本書のいうとおり、やはり私たちが近代産業社会の「内部」にいることの証左だから、つまりそういう「情報化社会」論を私たちが「聞きたい(=欲望している)」からだという説明もよくわかる。
だがそれだけではなくて、それでもやはり現実的にも理論的にも、情報テクノロジーの変容が社会性の場を(一義的にではないにせよ)変容させていることに私たちが気づいているからではないだろうか。つまり、不可逆的な変化を生み出しながら無限に駆動しつづける近代(産業)資本主義のフロンティアが、現在ではとりわけ情報テクノロジーの場に集中していることを実感しているからではないか。より正確にいえば、近代社会の構造の内部(その延長線上)にあるという意味ではたしかに「変わらない」としても、現在という社会性の場について私たちが感覚している「変化」――それはともなおさず「言語としての情報」という核心部において、まさに現代社会のフロンティアを駆動する変化である――というのは、それでもやはり正しい側面をもつのではないか。つまり私たち=「社会」が望んでいるものこそが、結局はひるがえって「情報テクノロジー(の革新)」なのであり、その巨大なニーズの存在と運動こそが、いやおうなく「社会的な変化」をもたらす当のものではないか。
その意味ではむしろ、「情報テクノロジーが(現実的に)社会を変えた」側面があるとすれば「変えた」側面とはどのようなものか、それがいかなる社会性の変容と結びついているのか、という点をストレートに問う課題も残されていると考えられる(=この点で★マイナス一つ)。それが読者であるわれわれの課題でもあるにせよ・・・。
以上の点をふまえてみると、本書は第一に、「情報化社会」論の(とくに言説的な側面における)「脱構築」として見事に理論的に成功していると同時に、第二に、それにもかかわらずどこかで(非言説的な側面を含む)〈現実〉との落差を示してしまうことによって〈現実〉を逆照射する契機を与える、という二点において、やはり卓越した論考というほかはないように思われる。
(なお文庫版の改訂部分については当レビューでは言及していない。)