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確かに初版「破戒」には、種々の差別的表現がありました。
「穢多、非人、かたわ、気狂い」等の。
しかし、それを訂正すると、かえって、部落差別を糾弾する
作品のインパクトが明らかに低下してしまい、改悪でした。
そして、昭和28年、初版本が復原されます。
しかし、部落解放同盟は、
1.何の解説もない、単なる初版本の復元はおかしい
2.部落民と解放運動を考慮してほしい
というものでした。
「破戒」には、確かに「差別的要素」は、あると思います。
・差別用語
・丑松が、穢多だということを隠していたことを、土下座して
謝る。アメリカへと旅立つ=逃避
・解放運動家の猪子連太郎の台詞:「いくら我々が無智な卑賤
しいものだからと言って」の問題点
しかし、まあそれは、何というか、無いものねだりという気がしてなりません。
まだ、部落解放同盟はおろか、全国水平社すら無かった時代のことですからね。
時代的制約というものが、時代的限界性というものが確かにあるでしょうね。
むしろ、その先駆性をこそ賞賛すべきだと思われてなりません。
しかしこの「告白」は決して積極的な意味での告白ではありません。
教員の間で噂(仕組まれたのですが)が立ち、逃れることができない状況に追い込まれた後の告白です。
そこで考えました。果たしてそういう状況でなくても彼は告白したのか?
僕はしなかったと思います。自信を持って言えます。
たとえ尊敬する先生の死があったとしても。
彼は噂が立つまでは戒律を破ること考えてはいません。
考えていたとしてもその恐ろしさからすぐにその考えを消しています。
告白を決心する時、社会の不合理に対する嘆きと地位を失うことへの恐怖が表現されています。そこでは後者の方が強く表現されているように感じました。
要するにやむを得なく破戒したといっていいでしょう。頭を下げて謝罪のように告白するシーンには賛否両論です。一見弱気な告白ですから。でも僕はそこに主人公の弱さよりもその不合理な社会の残酷さや巨大さを感じました。
テキサス行きの話はそんな被差別者に希望を与えたかったのでは?と思います。主人公は藤村に共通するイメージがありますから。
テキサス行きの話は決して「逃げ」ではないと思います。
またこういう展開になるのは、藤村自身が培った「人間は本質的には弱いもの」という考えからは想像に難くないです。
長くなりました。この小説にはいろんな意見があります。もちろん浅はかな僕の感想ですから反論も沢山ありそうです。
まずは自分で読んで自分の意見を持つ。それでよいのではないでしょうか。
長文・雑文失礼。
新潮文庫の「破戒」も初版本が復活するのは昭和46年の事である。という事は、昭和46年以前に「破戒」を読んだ人は真の「破戒」を読んでいないという事だ。改訂本は表現を改竄したり、削除したりと、藤村の真意が伝わらない改悪本だと言っても過言ではない。
もし、改訂本しか読んでない人がいれば、是非現在発売されている初版本を読んでみて欲しい。
真の名作は、あらゆる弾圧、障害をはねのけて後世に残っていくものだと言う事を「破戒」が証明してくれている。
本の内容については、感じ方が十人十色だろうから書かない。中には不満に感じる人もいるだろう。
ただ日本人なら一度は読んでおくべき本だと思う。
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