現象学が話題にされるのは、一般にはハイデガーを経由してです。でも、ハイデガーは、先生のフッサールに必ずしも忠実だったとは言えません(ユダヤ人だったフッサールとナチス党員ハイデガーとの確執、は別にしても)。現象学を本当の意味で発展させ、最終的に現象学の限界を示したのは、メルロ=ポンティです。
フッサールの現象学は、結果的に、彼の野心(事象そのものへ帰れ)を達成させることができませんでした。けれども、失敗した実験からも、なぜそれが失敗したかを明らかにできれば、大きな進展がもたらされる場合があります。なぜ現象学的還元は不可能なのか、なぜ私たちに<事象そのもの>は禁じられているのか。メルロ=ポンティはフッサールの野心に終止符を打ちましたが、それは大きな終止符でした。
本書のテーマは、見る・聴く、といった、私たちの誰もがごく普通に持っている<知覚>です。哲学お得意の?<認識>とか<論理>に比べ、余り陽の当たるジャンルではありません。ハイデガーの<存在>もそうですが、当たり前すぎてわざわざ注目してみようという気にならない、ということかもしれません。が、私たちがこのように見たり聴いたりできるというのは、本当は驚くべきことです。見る・聴くという能力に比べたら、計算能力とか記憶能力の多少は、些細なことに思われてきます。
ハイデガーが、あるとは何か、と問い、メルロ=ポンティが、見る・聴くとは何か、と考える基礎を築いたのが、現象学です。講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズは、マルクス・ニーチェ・フロイトとともに、フッサールを「現代思想の源流」と位置づけています。フッサールの現象学は、彼の当初の目論見が誤っていたにもかかわらず(だからこそ?)、哲学史に巨大な足跡を残すことになりました。