毎年、年末年始にかけて池田氏の本を読む。愛犬を連れての長い散歩やドライヴで、氏の言葉の一つ一つを反芻しながら・・・。
18歳の少女の手紙「考えるということは無限だと気づいた。なぜ、そういいきれるかというと、考えるというのは、かべがない。どこまでも進んでいってしまう。が、私が存在するということは話は別だ。何で<ある>のだろう。考えたくても、先へ進むことができない。このむじゅんは一体何なのでしょうか。親に『病院へ行った方がいいんじゃない』といわれた」。
氏の返事、「考えると無限に考えられるのは、存在の内容が無限だからで、存在することしか考えられないのは、それが存在の形式だからです。存在の内容と存在の形式が矛盾するのは存在の真実なので、真実に気づいたあなたは病院へ行く必要はありません」(『考える日々3』)。
どういうわけか、人間は生まれたら死ぬまで生きる。これは存在の形式です。存在の形式をコップに例えると、コップに紅茶やコーヒー、ジュースやスープを入れてもコップはコップです。このとき紅茶やコーヒー等々が、存在の内容=人生の意味となります。百人いれが百人の人生があります。しかし、その存在のカタチはひとつです。つまり、生まれたら死ぬまでは生きる。あるいは、生きているものは必ず死ぬ。では、なぜ生まれて・死ぬのでしょうか?これが存在のナゾです。さっぱりわかりません!どんなに科学が進んでも、「なぜ生まれるのか(存在するのか)」には答えられません。
で、わからないから考える。「考える」とは「精神がその本質において自身を洞察する」ことである、と。
言葉は平易ですから、氏の言葉の表面だけをなぞりがちになりますが、実際に「考え」てゆくと、底なしで、非常な困難に出会います。でも、得るものも大きいのです・・・。
考えること(哲学)の本当を、教えていただきました。特に『残酷人生論』おすすめします。