本作品のもととなった連載中も、読者にまた本書の中心となっているインタビュー相手にも、多くの疑問を抱かせた奇妙な思考が、そのまま本となっている。哲学の世界では、このような「思考」が「知の遍歴」とみなされているのだろうか。哲学者のレビューを読みたいところだ。
本書の刊行後、連載もとの『UP』に「後日談」が載っている。これは本書の宣伝を兼ねて、立花隆氏と対談を行ったその記録である。ここにまさに本書の、より正確には著者の思考の欠陥が明瞭に浮き彫りにされている。ところが著者の小林氏は、相変わらずその欠陥に対して無自覚である(でなければ無反省に記録を公刊しないであろう)。再録すると:
う〜ん。「偶然」ということは、まあ、事実と経験に重点を置き、それ以上の超越的な意味を仮定しないということになるわけで、そこまではっきりと言われると、わたし自身はそうじゃないよなあ、とちらっと呟くように告白すると、
立花 本当ですか?全然そう思わなかった。
小林 ええ、同じ仲間だと思ってた?
立花 小林さんって、そういう人じゃないと思ってた。
あとから思い出すと、こここそ、立花さんと私の間にある種の深淵が口を開け、(以下略)
連載中も、こここそが小林氏の思考の最大の欠陥であることが、くりかえし対談相手から指摘されていたにもかかわらず、それを固持し続けるのはなぜか。立花氏は、この本について「よく複素数の話が出てくるでしょ?」と指摘し、また対談中に「神的っていう、その<的>がわかんない。なにをもって的、的、的・・・(笑)」と疑問を提示する。これは、小林氏の「神」にあたるものが、複素数だからだ。また翻って、そのような内容の本を読んで、すぐにこの思考の欠陥に気付かず、「そういう人じゃないと思っていた」立花氏に対しても、読解力に大いに疑問がわく。
これが哲学における「知」なのだとすると、東大の哲学は何を学問しているのだろう。