「夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる」というボオドレエルのアフォリズムを副題とする「真夏の死」は、海難事故という悲劇から出発している点に特徴がある。解説で作者も述べている通り、通常の小説では悲劇は最後に起こり、その必然性としての宿命がそれまでに描かれる。「真夏の死」はそれと反対を描き、なんの暗示もなく突如悲劇が起こるために、後に残された者がその必然性を疑う展開をみせる。
予め示されない必然性を埋めるかのように朝子は「悲し」む。「悲しみ」が癒えてしまえば、その悲劇は何事もなかったかのような偶然のある出来事に変わってしまうからである。そのため、「何事も天命」であると捉えるには至らず、深い悲しみを固持しようとするのだが、悲しみの程度、実質というものが曖昧である故に、どれだけ悲しんでも悲しみが足りないように感じてしまう。しかし、結局は悲劇の必然性を見出せないまま、悲劇を日常生活の中へ、すなわち偶然性の中へ溶かし込んでいく成行になってしまう。そこから、別の必然性を待つようになる。つまり悲劇の、あるいは悲劇に対する悲しみの物語化である。さらに、新しい子の懐胎は別の必然性を待つ覚悟の証とも思えなくもない。
「運命」を必然性として捉えるか、それとも「虚構」を描き、必然性を確保するか。この両者の間で揺れ動く様を描いた傑作である。