八篇の短篇小説と一篇の随筆で編まれた古井由吉氏の作品集です。出版は1986年、古井氏が48歳の年、本作を挟んで前後三年には『槿』と『仮往生伝試文』が出版されています。本作品集に接するにあたっては、このことを念頭に置いておいても良いでしょう。
日常の凝ったところ、時間が停滞(或いは疾駆)し空間が緊張(弛緩)したところ、感情の極まったところに現れる生の虚無の相は、これまでの作品でも古井氏が凝視し描いてきたところですが、本書に収められた作品では虚無の開いた先に現れる生の実相とも呼び得る像が描かれています。男女の睦み、一心に薪を割る出戻りの男、抑鬱状態で女に養われている男、様々な生の孕む虚無が開いたところの生の実相を古井氏は、歩幅の長い、冗長に傾きそうで粘りを見せる息を凝らしたような文体で丁寧に描き出していきます。そしてそこには、張り詰めた現実が解けた時の幸福感とさえ呼び得るものが横たわっています。
受け手に阿ってのことか己が興味に従ってのことか、文学に限らずあらゆる芸術が、生の表層を描くことばかりに汲々としています。しかし、芸術の赴くべき所はそのように安易に捉え得る生の表層ではなく、生の剥き出しの姿、生の源泉とも呼ぶべき像なのではないでしょうか。そのような安易で怠惰な風潮のなか古井氏は、数多の作家が試みない域(閾)へ言葉で接近しようと試みており、その野心は近年の作品群に結実しています。
本書に収められた作品群は、心理を丁寧に描写して小説然とした作品から精神と肉体の混交とした様を長足の文体で描いた近年の作品への途上にあると言っても良いかもしれません。しかしそれを半途にある作品の半開というよりも、移行期特有のダイナミズムの表れと捉える方が正確でしょう。