昭和天皇と香淳皇后の婚姻時の妨げとなった「宮中某重大事件」は、当時の政界を震源としたスキャンダルとして有名だ。
しかしながら、そのおよそ20年前、嘉仁親王(大正天皇、当時は皇太子)の妃選定の際にも、さらに大きな難問が横たわっていた。
嘉仁親王は幼少より病弱であり、当時直系男系男子が他にいなかったことからも、周囲はかなり気を遣て育てたようだ。
明治天皇は皇太子の妃に皇族の姫を望んでおり、白羽の矢を立てられたのが、容姿、性格ともに抜きんでていた伏見宮禎子女王だった。
しかし、その後、健康問題を理由に婚約は解消されてしまう。
この間の過程を当時の妃選びにかかわった人たちの日記など原資料を丁寧に読み解き、正確でとてもわかりやすい内容にまとめている。
内定当時の女王は8歳。そして、内定解消当時は14歳。
多感な年代の少女が、複数の医師に何度も健康診断されたり、周囲の都合で婚約させられたり、解消されたりと今の視線でみると何とも気の毒な立場だ。
妃候補だった少女(一流華族の娘ばかり)の性格や容姿を露骨に評価している周囲の大人たちの姿も、多くの日記から垣間見えてくる。
明治天皇はとても真摯に妃選びを行っている。
そして苦渋の決断の末婚約を解消した禎子女王に対する温かい心配りを見ると、さすがに人格者であった明治天皇の崇高な一面もうかがえる。
結局、妃は宮家ではなく五摂家の九条節子(後の貞明皇后)になり、彼女は昭和天皇の母となっている。
皇室の威厳が現代とは比べようもなかった明治時代。
その当時の皇室制度の一端を垣間見られる好著となっている。