ムルソーの終盤における絶叫がニーチェの「神は死んだ!」(『悦ばしき知識』125番)の変奏であることは明らかです。よってニーチェのルサンチマン論を知らないと十分理解できないと思います。ルサンチマンを抱く人間は相手がいないと自分を「善い(善良な)」存在だとみなすことができません。精神的貴族が自らの強さ・豊かさ・美しさを自己完結的に「良い(優良な)」ものと評価するのに対し、精神的賤民はまず他人がどれだけ「悪い」存在であるかをでっちあげ非難誹謗したあとで反動的に自らの弱さ・貧しさ・醜さを「善い」ものだとみなすわけです。この錯乱した妬みの思想がルサンチマンです。
ムルソーは一般的に見ればちょっと変わったところがあるにしても平凡な人間に過ぎません。少なくとも第一部ではそう描かれています。ところが第二部で裁判が開始されると、徹底的に嘘がつけないという美徳ゆえの彼の非常識な行動や言動が、偶発的に行われた殺人に直結されてしまいます。検事も判事も、ムルソーの弁護士ですらも、事実を歪曲し必死でムルソーの虚像をつくりあげようとします。彼らにとって社会通念の通用しない人間はそれだけですでに異常で危険な存在というレッテルを貼られて当然なのです。ムルソーが母親の死を悼まなかったのは、それが充実した人生を全うした母親に対する侮辱だと考えるからですが、ルサンチマンに満たされた社会はそれを理解できません。あくまで御用司祭のようにぐすぐす泣いてくれる人間が社会にとって必要なのです。嘘がつけない根っからの正直者ムルソーは受け入れない一方で、嘘泣きしたり謝ったふりをしてみたりする欺瞞的な人間に対してはより大きい評価を与えるのが社会なのです。ムルソーが主体的に「良い」と感じたことでも、社会にとっては「悪い」こととされ、あくまで社会という全体が絶対的に「善い」ということにされてしまうのです。
加えて、この作品がドイツ軍によるフランス占領時代の1942年の作品であるということにも留意すべきでしょう。カミュ自身は否定していましたが、カミュが広義の実存主義者だといわれるのもこの辺に由来しているのだと思われます。