ここでもグローバリゼーションの影響は大きい。グローバル化は異文化の接触を増し、人々に文化の違いを意識させる働きをしている。
通信・交通機関の急速な発達で、かつてのあこがれの秘境がツアーに組み込まれている時代だ。グローバル化によって秘境も異文化も身近になる一方だ。こちらから出かけなくても、街角で、テレビ画面で、異文化の方から接触してくるようになった。異文化にどう接したらよいかを知ることは、今や現代人に必須の教養と言えそうだ。
どのように異文化に接し、どのように異文化を見れば、正しい認識を持つことができるのか。この現代的課題について、自らの体験をはじめとする豊富な例示を交え、易しく説いているのが本著『異文化理解』である。
「世界の文化はどこかで互いに影響し合いながら形成されている」から、異文化理解には、異文化の理解から自文化の理解に至る道と、自文化を訪ねて異文化に至る道とがある。中でも古い歴史を持つアジアのような地域についてそのように言える――タイで僧院に入り、僧修行をした経験を原点とする著者の述懐である。
靖国神社問題や歴史教科書問題がこじれている。一般の日本人には、別段戦犯を参拝しに靖国神社に行くという意識はないのだが、中韓両国では神社参拝という文化が理解されないで政治問題化してしまう。
歴史教科書だって日本人にとっての自文化の問題だと思うが、先方にしても自国の歴史に絡む問題であるから、政治問題化してくると簡単には引き下がれない。文化が紛争の火ダネとなりがちな世界になっていることを再認識させる事態になってしまう。
異文化理解の障害になる偏見、先入観、安易なステレオタイプ化で、相互の目が曇らされているのかもしれない。著者の説くように、近代日本は近隣国である中国や韓国を「異文化理解」の対象として正面から見る視点を欠いてきたのだろうか。一方、中韓両国では、著者の表現を借りれば「吹き溜まりの文化」である日本文化を一段低く見る気分がなくならない。相互理解には長い時間がかかりそうである。
(国民生活金融公庫総裁 尾崎 護)
(日経ビジネス 2001/08/27 Copyright2001 日経BP企画..All rights reserved.)
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文化人類学者の著者は、自分のタイでの僧修行の経験をもとに、そのような制度がタイの文化的な中核になっていると同時に、社会に対してゆとりをもたらしていると考える。近代的な社会からいったん離れて、「空白の時間」を過ごし、そしてまた社会へと戻っていく。これは何も僧修行のような特殊なものばかりを指すのではなく、異文化の世界に入っていくこともまた立派な「境界の時間」を過ごすことになる。留学、海外赴任などもそうだろう。
日本においては、この「境界の時間」を経験する場がほとんどないと著者は言う。留学や海外旅行をする日本人が??れだけ多いというのは、裏を返せば、国内で「境界の時間」を作り出すことができないことが一つの原因だとも言い得る。「結局、現代の直接的な時間に裂け目を作る装置がないために、日本社会はゆとりのない、緊張ずくめの社会になってしまっている」(73頁)のである。
近代的な社会から離れて、自分を一時的に全く異質の存在に変えてしまうことの意義は、何も自己実現のためだけではないのである。それが社会にゆとりをもたらし、そのような「逸脱」を社会全体が許容できる(または当然視できる)ようになった時、そこに文化が生まれる余地ができると言い得るだろう。
本書は、こうした示唆を与えるために、次のような問題意識を展開する。すなわち、グローバル化が進むほど、異文化を理解することが重要になる、と。現在生じているグローバル化がもたらす帰結はいくつか考えられるが、文化の視点に立つと、おおよそ3つの懸念事項がある、とする。1異文化の人たちと交流を持つことから生じる弊害。2文化の表面的画一化現象をどのように捉えるかという問題。3グローバル化による自文化と異文化との衝突であり、文化摩擦による戦争の併発、などが指摘されるのである。本書は、こうした問題が、異文化を理解する視点が養われていないために生じるものであり、今後グローバル化が進めば進むほど、異文化を理解する必要があることを説くに至るのである。
異文化を理解する視点は、主として文化人類学の知見を利用して、「境界の時間」「境界の時間を生み出す儀礼の意義」を見ることを提示するが、さらに広くは、その共同体固有に展開されているコミュニケーション、その共同体のみでしか通用しないコミュニケーション(これを「象徴」としている)に注目することで、異文化を理解することが出来ることを提示している。詳しくは本書を参照されたい。
本書は、文化という、実に抽象的な議論が展開されることになるが、これを理解することは、複雑雑多な人間、多様性を持つ人間を理解していこうとする一つの視点を投げかけてくれる、と考えられる。すなわち、こうした文化に関する議論は、個々人が異なるとされる、複雑雑多な人間の共通性を抽出してくれる、と考えられるのである。また、一方で、人間個々人が異なる、ということは、個々人レベルで文化が異なる、ということもできる。すなわち、文化は、共通の価値や行動パターンとはいうものの、個々人レベルでも存在するかもしれない。いや、個人個人が異なるというのは、個人レベルで固有の文化が形成されているから、ということができるのである。こうした視点に立つと、異文化を理解するというのは、他人を理解するということにもつながる、と考えられる。
本書について、もう1点、付け加えるなら、グローバル化という視点から、もう一つの研究課題があると思われる。それは、新しい文化がどのように生まれるか、という問題(本書でいう混成文化に近い考え方)である。人間に学習機能があるとするならば、すなわち、異文化を理解するだけでなく、それをベースに新しい文化を創造する側面があるかもしれない。これは、その文化固有のコミュニケーション様式・象徴論理が変更されることを意味する。これに関連するメカニズムを探ることは、かなり意義があるのではないか。
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