2008年のノーベル物理学賞は、南部陽一郎、益川敏英、小林誠の三氏が受賞した。受賞理由は、いずれもパリティ非保存に関係する業績である。南部の理論は、一足先にノーベル物理学賞を受賞したワインバーグ等の理論にも影響を与えているらしい。南部や小林のブルーバックスが大急ぎで平積みにされていたが、手に取ってページをめくってみることはあっても、誰も買わないだろう。実際、売れていなかった気がする。
ちょうどそんな時期に読んだ。第一章の序論に続いて、第二章では対称についての数学的な説明、第三章ではマクロの生物界の対称性、第五章では分子レベルでの非対称性、第七章では原子・素粒子レベルでの非対称性について、わかりやすく説明されている。第四章と第六章は、やや独立した付論である。第二章はやや難しい。
対象を変化させた時に、その前後で対象の状態に区別がつかないような操作を、対称操作という(P.21)。もっとも分かりやすいのは鏡映で、鏡に映した時に実像と鏡像の区別が付かない場合のことで、その対象は鏡面対称という対称要素をもつ、と表現する。いわゆる左右対称のことで、例えば人間の体がそうである。対称操作と対称要素は抱き合わせで一義的に決まる。この他にも、回転、反転、回映、螺旋、映進などの対称操作がある(P.40)。対称操作とは数学で言う行列・写像のことなのだろうな、とは思うが、レヴィ=ストロースに読ませたかった。
生物は進化の過程で、球対称から回転対称を経て左右対称へと、対称性を発展させていったが(P.79)、こうしてできた動物や植物の構造は、種々の対称性を持つようになった(P.60-62)。これがマクロの世界である。しかし一方、ミクロの世界になると対称性は崩れてしまい、非対称なアンバランスの世界である(P.116)。すなわち、アミノ酸や(デオキシ)リボースは、いずれも不斉炭素をもつキラルな物質であるが(P.124, 132)、生体中のアミノ酸はすべてL-体で(P. 146)、(デオキシ)リボースはD体であることがわかっている(P.125)。これはどうしてだろうか、と。キラリティが生じてしまったことと、一方のエナンチオマーに決まったことの根拠は何なのか。
筆者は素粒子レベルに話を掘り下げる。素粒子間にはZ相互作用とよばれる弱中性カレントが働いているために、電子はわずかに右巻き螺旋の軌道をとっているが(P.190, 191)、このためL-アミノ酸の方がD-アミノ酸よりもわずかに安定なはずで、理論的にはD-アミノ酸よりも10-17だけ多くなってよい(P.192)。もちろん、あまりにもわずかな差であるため、これでは現実のホモキラリティーの説明にはならない。L-体のキラリティが成立したことに必然性があったとしても、それが増幅される過程が是非とも必要になるが(P.193)、たった十万年で、すべてのアミノ酸がL-アミノ酸になる確立が98%であるという理論値も得られている(P.195)。すなわち、ある種の素粒子間相互作用のために宇宙は本質的に非対称であり(P.185)、この小さな差が生物界のホモキラリティーを説明しうる(P.212)、というのである。だから、非対称的にできている現実界のネガ(エナンチオマー)は、あり得べくもない、ということになる。ちなみに、(デオキシ)リボースのキラリティについてはどうなんだろうか。
もちろん、筆者自ら、「生命の分子から生命の誕生までのギャップは大きい」(P.212)、と言うように、非対称性なミクロの分子を積み上げていって、どうやったら対称的なマクロの世界につながるのか、また、どこで非対称性を乗り越えて対称性に相貌を変化させているのか、については結局分からず終いだった。フラクタクルが崩れているということであろうが、これはそんなに不思議なことではないような気もする。右手型を模した小さなアイコンを使って左手を描いて、これを遠くから離れて眺めれば、それは左手に見えるだろう。要するに、充分小さな単位の集まりを、充分遠くから観察すれば、もとの単位の原型が問われることはなくなる。これは日常的な感覚において腑に落ちる話である。
著者はその後、対称性についての続編は展開していないようである。マクロの世界における対称性について、たしかに人間の体は形態的にはアキラルであるが、利き手と逆手を持っているように、機能的にはキラルである。本書のサブタイトルは、「自然はなぜアンバランスが好きか」、とあるが、人が好むのはむしろ左右対称性であることが多い。これはどうしてなのか。あるいは、右翼と言い左翼と言う時の右左は、どういうイメージなのか。“right”は“正しい”という意味も持っているが、“left”には“価値のない”という意味も込められているらしい。右大臣と左大臣はどうだろう。左右対称とは言うものの、どうやら左と右はそもそも鏡面対称ではないらしい。
いずれにせよ、文系、理系を問わず、広く読まれて欲しい。