人の一生は四季たとえられる。それはライフサイクルといわれる。(河合隼雄著『生と死の接点』参照)春から夏は自我の形成期であり、秋から冬にかけては人生の全体性を把握し自分なりの世界観を完成させるときである。昔話により、内的な成熟過程のある段階を理解することができる。河合隼雄『昔話の深層』では西洋の昔話から西洋人の自我の確立過程を描き出している。西洋の昔話の多くのパターンは、「英雄が怪物を退治してお姫様と結婚して幸福になる」である。これは英雄(自我・意識)が怪物(太母・グレートマザー・無意識)から自立して自我を確立して、結婚により心の全体性を獲得すると解釈される。また、同じ河合の『昔話と日本人の心』では日本昔話から、日本人の心の世界を読み取っている。日本昔話では、「普通の男に突然あちらの世界から美しい娘が現われて男に求婚して結ばれるが、男が禁止事項を破り、女は去っていく」、という形で結婚は女性が申し込むということで、男は受身の立場である。ここでは、西洋の昔話と同様の理解は成り立たない。そこで河合は結婚を申し込む女性の方に注目して、分析を試みたのである。つまり、東西の自我の成熟過程には違いがあり、西洋人の自我は男女の区別なくともに男性像であるのに対して、日本人の自我は男女の違いにかかわらず女性像であらわされる。さて、昔話は共同体に語り継がれた物語である。物語の役割とは何であるか。人間は経験したことを心の中に収めるために、その経験を自分に納得のゆく物語にして生きている。神経症に悩んでいる人は、何らかの経験を自分の生きている物語にうまく組み込めていない。(『物語を生きる』参照)さて、村上の小説『1Q84』は、現代人のライフサイクルの表現として読めるのではないか。河合隼雄が『昔話と日本人の心』で見いだした「意志する女性像」(前段で述べた日本人の自我をあらわす女性像)と『1Q84』の「天吾」と「青豆」の男性、女性像の関係は何を意味するだろうか。『1Q84』を現代の昔話あるいは神話として再読したいと考えている。