3.11大震災から始まる「生きがいの創造'W」のストーリーは、迫真の臨場感と共に目の前に展開する、その日その時のシーンがまざまざとよみがえってきました。
震災を契機に、私たちの日本がどうしてこんなに苛酷な現実に直面しなければならないのか、考え続ける日々が続いていたのです。
なぜこれほどまでに悲惨な現実に向き合わなければならないのか、地震と津波だけでも歴史的な大災害であるにもかかわらず原子力発電所の事故と放射能漏れ、人類がかつて経験したことの無い複数炉の同時破壊とメルトスルーという、未曾有の、本当に未曾有の災厄に見舞われてしまった日本。
家族を、自宅を、職場を、住んでいる街を一瞬にして失った、言葉に尽くせない事態だったからです。
しかもそれは現在進行形であり、復興への取り組みはまだ始まったばかりなのです。
大震災の意味・・この大災害に意味など問うても良いのだろうか、という自問を繰り返してきたこともあり、「生きがいの創造'W」を手にとった直後から私はむさぼるように読み進めました。
エスカレータで、地下通路を歩きながら、何かを探すように文字を追い続けたのでした。
そして私にとって大きな驚きは、著者が初めて「政治」について言及されたことでした。
この社会、地球という星の上で暮らす私たちにとって、とりもなおさず私たちの幸福を追求する枢要な部分を「政治」が担当している社会システムですから、誰しも放置することは出来ないはずなのです。しかし今まで一度もその部分は触れてこられなかったからでした。
著者はあらゆる思想から中立でありながら、この社会の「経営」を行うべき政治へ向き合う姿勢を、市民のレベルでいかに関わってゆく必要があるのかを、原発事故を契機として果敢に「挑戦」されていたのです。私たち一人一人がもう一度真剣に参加しなくてはならないのだ、という原点に気づかされた。
今の私たちは、繰り返される政治家たちの不祥事に嫌気がさし、あまりにも政治不信となり、その政治不信は低い投票率になり、結果として組織票を持った特定の団体を利する結果に繋がっていたとしたら、私たち自らが招いたことになるのだと。
いつの間にか54基もの原子力発電所が地震国の海岸を取り囲むように建設されてしまったことに、どれほど多くの国民が知っていたでしょうか?おそらく、私も含めてほとんどの人が知らなかったと思うのです。
政治家の責任のようではあるけれども、本当は人民である私たちの責任なのだと、猛反省させられました。
そして「命に係ることの経営においては効率を捨てる」という、本当に当たり前というか、その通りのことが
なぜか忘れ去られてきたこの時代に、社会システムとして一番大切な「経営判断」を示してもらった気がします。その意味で「生きがいの創造'W」は、3.11以降の社会を創造する私たちの行動指針になるものだと確信致しました。
本当に貴重なメッセージの数々に深く感銘しました。