従来の甘粕像を覆すという意味では、角田房子の『甘粕大尉』が既に十分な仕事をしており、因習にとらわれず合理的で、人に優しい男としての側面が描かれている。
それでも一般に甘粕につきまとう冷酷・残虐というイメージは重く、それは戦前期の陸軍憲兵隊、そして戦中の満州国が抱えた闇の深さを彼が一身に背負い、振り払おうともしなかったためでもある。甘粕を慕う人間は多かったが、同時に多くを語らない甘粕の闇を利用して、自身のみそぎを果たしていく人間も多かった。
『甘粕大尉』で、大杉事件については黒に近いグレー、真相は闇の中、という書き方をしているが、本作では真犯人を特定している。ただし、大杉殺害の下手人が誰であったかは本書の主題ではないし、事件は甘粕のその後の暗躍の入り口にしか過ぎない。満州で甘粕は、表と裏、昼と夜を股にかける帝王であり、彼の本来の能力が見事に発揮される。佐野はもう一歩踏み込み、新しい資料を用いて甘粕の人間くささを明らかにする。文章からは著者が前作以降、満州に魅了されている感じがよく伝わってくる。戦後日本は数え切れない満州の遺産と位牌の上に繁栄を遂げた。戦後日本のルーツを満州に探ること、そこで跋扈した多くの魅力的な日本人を記録すること、前作から続く佐野の問題意識であろう。最後に、甘粕の周囲の人間のその後を執拗に追っている。この執念と活劇的な描写が著者の真骨頂と言える。個人的には、甘粕本人よりも甘粕の妻、娘がその後辿った人生が何より興味深かった。