思想とは思想家の頭のなかにある。なにせ「思想家」なのだから。−−こう考える人は、本書の冒頭からして目眩を覚える。最初に論じられるのは、白樺派である。それはまずもって、日本の芸術運動として知られる。著者は彼らの芸術、また「新しき村」という社会運動のなかに思想を見ていく。著者にとって、思想とはこのように現実を動かすものである。思想とは、すでに起こっている現実を抽象して考えられるものではないのだ。
本書を貫くのはこの視点である。この視点によって論じられる「思想」は次の通り。日本共産党の結党以来の運動。地方を中心として教師の間に起こった、生活綴り方運動。伊藤博文の作った明治期の国家システムが崩壊していく先を見据えた、吉野作造と北一輝の思想。そして戦後直後の実存主義である。
本書は久野収と鶴見俊輔の共著だ。特に鶴見俊輔は第4章を除く、4つの章を執筆している。その論理的で極めて明晰な文章に驚かされる。そしてまた、冷静な批判と客観的な視点に。例えば日本共産党に関して鶴見は、一貫して批判する。しかしながら、政府・軍部の徹底的な弾圧、社会からの無理解にもかかわらず、結党以来一貫して天皇制反対を守り続けたことを大きく評価する。これは久野には無い態度である。冷静・客観的でありながら、熱のこもった鶴見の筆致。それは生活綴り方運動の記述の仕方に特に見られる。徐々にマルクス主義に傾斜していくその過程を、当時の子供の文章を引用しながら明らかにする。極めて効果的な論じ方だ。
とはいえ、二つの疑問が残った。一つは、綴り方運動の位置づけについて。鶴見によれば、生活綴り方運動はプラグマティズムである。しかしそれは、本家アメリカのプラグマティズムと極めて僅かなつながりしかない。生活綴り方運動をプラグマティズムと称することは、私には違和感があった。むしろそれが「主義」としては不定だったからこそ、マルクス主義に傾斜していったのだろう。もう一つは、実存主義について。鶴見によれば、彼が呼ぶ実存主義は戦後すぐの時代にしかない。鶴見が論じた時期(1956年)でさえ、「それを生み出した戦後的社会条件が既に終わった」(p.207)。だが、いわゆる実存主義思想の隆盛はもう少し後の時代である。日本での実存主義は、戦後日本が徐々に立ち直ってきた時代から、「68年」まで続くのではないか。
本書は原著1956年であるから、だいぶ古い本だ。だが、その視点はまったく色褪せていない。そして論じられた思想も、現在でも日本社会を規定し、影を残している。この本の続編となるような本が、今こそ必要なのではないか。ミネルヴァの梟は夕方に飛び立つのではない。朝に飛び立ち、人々を導いていくのだ。