今回の特集のなかで、海賊ビギナーにとってわかりづらいと思われる部分が一点あります。それは用語の問題です。もっとも一般的な意味で「海賊」という訳語が当てられる英語はpirateですが、それ以外にも場合によっては「海賊」と訳されうる単語として、privateer, corsair, buccaneerなどの用語があり、これらはおおむね私掠船(者)と訳すことができます(もちろんそのままカタカナ表記の場合も多いですが)。私掠とは、端的にいえば国家の後ろ盾を得た「海賊」行為のことです。
一方で、「万人の敵」という見出しの4論考が扱っている「海賊」とは、pirata (pirate)のことです。pirataとは、133pで要約されているように、万人の敵となりうるような敵対的海賊行為を行なう、法の埒外の主体のことですが、ここで、あくまで私見として、欠落していると思われるのは、それは誰にとっての敵対性なのか、あるいは本当に万人に対する敵対なのかという点です。結論から言えば、海上で略奪し、経済に打撃を与える者をpirataと呼ぶ主体とは、国家、あるいはそこに極めて近い場にいる商人などです。たとえば有名なフランシス・ドレークの話では、スペイン側から見たら彼は完全な海賊(pirata)でしかないのですが、イギリス政府の保護を受けているという点で、実質的にはcorsario (英語ではprivateer、私掠海賊)と呼ぶべきでした。
したがってpirataとは、名づけることによって生み出されるものだといえるでしょう。つまり国家は、不意の暴力的な略奪を、あたかもパフォーマティブに自己の権力の正当化を図るかのように、怒りと憎しみを込めて「海賊」(pirata)と呼ぶわけです。そう呼ばれた海賊が実際どういう者たちであるのかということにはほとんど意味がなく、その神出鬼没性がどれだけ国家を困らせるのかという点が重要になります。
こういった例は太田淳さんの論考でも例証されています。近代のマレー海域を扱うこの論文では、この頃から領域的支配という野心を抱き始めた西欧列強が、そのスムーズな支配を妨害する海の略奪者を「海賊」(pirata)と呼び始めるわけですが、その「海賊」たちの生活は海賊行為だけで成り立っているわけではなく、一種の地域経済の一環として海賊行為を行なっていたという点で、実質的には「海民」であったという視点が提示されています。
つまりD・ヘラー=ローゼンの論考は、pirataなるものについての理念的な考察だといえるでしょう。たしかに(国家からそう呼ばれた)pirataなるものの(理念としての、あるいは法的)存在は古代からずっとあったのでしょうが、現実を見るとそう呼ばれた者たちは私掠者であったり、海民であったり、はたまた純粋海賊であったりと、多様な姿が明らかになっています。
こういった歴史的海賊知識がないと、政治哲学的、法学的論考である「万人の敵」は読みづらくなります。とはいえこうした部分を差し引いても素晴らしい特集になっています。ほかにも優れた論考が多数掲載されているので、目を通してみることをおすすめします。