そもそも期待していたのは『ヒューマニズムは不安定な人間中心とする思想で
絶対的なものではなく、むしろそこを礎としてはいけないのでは?』という結論を
淡い期待をもって読み始めたが違いました。(ヒューマニズム肯定的)
当時(1961年)は戦争の傷が癒えかけた反省の時期に含まれるのかなと想像し
人間中心、平和主義というのは強く繰り返し訴えなければならなかった事なのだと推測する。
でも今、人間中心は皆がそう思いすぎて、さらに自己中心まで暴走している感がある。
「迷惑かけなければ良い」etc
筆者が訴えているのはもちろん「自己」中心ではなく「人類」中心。
常に理想像というか目指すべき姿、
いわんや個々の人間の最小公倍数的なものにならんと努力せねばならないと(解釈した)。
でもそれって絶対者(絶対的な理想像)の存在肯定と余り変わらないのでは?
そう、遅めの朝ごはんと昼ごはんの違いくらい。。。
key word
P17 カント:行動の無い思想は空虚であり、思想のない行動は盲目〜
P77 普通では人間が主体であって他の存在は客体であるのに、
宗教ではこの主体・客体の関係が顛倒されて人間は神の救いの客体(対象)になるのです。
このような人間の主体性→その客体化→客体化から主体への復帰とその深化、
(⇒⇒ここまではよい)
この主体性の運動は、じつは自然史的な状況によって成り立つのです。
自然史の中で人間は自然から発生し社会的条件によって人間にまでなるのですが、
(⇒⇒創造論ではなく宗教と相対する進化論を前提にするのはおかしい。)
この間にその主体性が確立される。
主体は自然的・社会的条件によって成立するのですが、主体性が主体性として確立すると、
それはただちにそれを成立させた条件(自然)に対して対抗するのです。
P79
人間から独立しそれ自身で存在するものになり、人間から全ての能力を略奪する形です。
(中略)人間は無力となり神なくしては存在しえないものになってしまう。
そうなると人間的なものを掩い隠されてしまう。(?)
人間はあわれな神の奴隷となってしまう。これは絶対性の呪物化といっていいわけでしょう。
(キリストより神道の神を否定?!)
P99 マスプロマスコミにより画一化、受動化されている。
画一化&受動化→コマーシャル、イメージ戦略による
→主体的に自分で考えたり判断する必要が無いことを示す
→無思想。一般人だけではなく右翼についても
矛盾だらけの思想というより空疎な観念的ドグマで直接行動する右翼が多くなっている
→人間疎外
P108 (筆者は正論ではないといっているもののうちの一つの反証材料)
「パンセ」の72節、
人間は虚無から発し、無限へ向かって運ばれていく。この両極について何事を知ることもできない。
人間は両極による有限者であり不安定な存在
「パンセ」205節私がこの世に生まれ、いまここにいることについて、何の理由も与えられていない。
人間の運命には底知れぬ不安と偶然性。「コギト」ちっぽけな自分のあしもとを見ているに過ぎない
P148 (筆者のポイント)
全体的人間としての人類概念は三角形の本質のように確立されているものではなく、
私たちが自己疎外の問題と取り組み、ファシズム、テロリズム、ニヒリズムと妥協の無い
戦いを続けることによって一歩一歩歴史的に獲得していくものです。
P153 三木清 人正論ノート
胃が正常な人は胃の存在に気づかないように、幸福を考えるということは既に不幸の始まり。
でも現在の無思想はちがう。幸福を知らないものに幸福は理解されない (昭和16年著)
P155 快楽の定義
1.永続できない、2.その度を強めるためには強い刺激が必要。結果有機体の健康を傷害する
3.孤独と秘密が潜んでいる4.孤独と秘密は快楽の度を強めるがそのために新たな恐怖と不安が生まれる
→理性と結びついていない。