いままで作家や詩人にまつわる話なんて、脚色だらけだと思ってバカにしていましたが、これはほんものです。
実はここ15年、ひょんなことから知り合ったある文学者が亡くなって(北村さんではなく)、あれよあれよという間に評論家と出版社と遺族と文学ファンが偶像を作り上げるのを見てしまったんです。まったく人間、恐るべし、です。今まで交友録、後日譚、伝記の類は、脚色2, 3割と思っていたんですが、事実は隠すわ(年譜から故意に落とす)、捏造するわ、脚色8割なんですよ!これはきっと過去の文学者もそうだったんだな、と愕然としました。(文学研究者の方、心してくださいね、きっとソーセキやオーガイだって例外じゃないですよ)
ところでちゃっかり、これはほんものだと断言しちゃったんですが、それはひょんなことから私も北村さんと知り合って(作者とは時期が違うようです、知らないことばかりでした)、そのときの空気が確かにこの本にあったからなんです。もちろん、そんなのおまえの思い込みだ、とか、人間は多面的でおまえに見せたのもその一面にすぎない、とか、それぞれの北村さんがあっていい、とか、罵声を浴びせられそうですが(それでかまいませんが)、語られたものが常にある種の「物語」であるとしても、それですべてを一律に相対化する、というのはちょっとどうかな、と思ったので、言っちゃいました。事実をちりばめて創作したものと、自分が関わったことを自分の責任で誠実に書こうとしたものとの違いくらいは認めてもいいんじゃないでしょうか。やっぱり味噌と糞は分けるべきだと思うんですよ。
ところで、私は北村さんとは、文学的交友ではなく、出版的な交友でもなく、利害関係もなく、恋愛関係もなく、ラーメンを作ってもらう関係でした(おいしかった)。その頃を思い出しちゃいました。それでラーメンを作ってみて、ふと思いました。でも、この本の作者って、北村さんを大切に思い出しながら書いたんなら、つい筆が走る、というか、美化したくはならなかったのかなあ、と。一所懸命、自制してたのかなあ、と。
そこで、気づきました。これは作者によって選ばれた形式と表現だったのだ、と。