著者の吉田司氏は冒頭で、この本が書かれるにいたった某編集者との偶然でいい加減な経緯から入り、ナゾ掛け的な三枚の写真・絵(人体骨格・沖縄戦の洞窟・蒙古来襲)の話を始める。あえて挑発的なしゃべり口調で、しかも手法として、ネット/ブログ時代への反抗として、コンピューターには収録されないデータベースのコラージュによって「仮説の冒険」を展開する。
これまでの多くの自著を含む膨大な書物からの引用のパッチワークから紡ぎ出されるのは、「戦後日本」の「戦前的根底」だ。安倍晋三や石原慎太郎といった政治家や、トヨタ・日産などの自動車企業といった馴染みの名前が、一貫して、前近代的背景あるいは満州に象徴される戦時下の植民地主義的近代化実験の中に、論理的かつ実体的な基盤を持っていることが暴露されていく。
ある意味大胆なその大風呂敷と語り口は、この著書の魅力であると同時に、しかし固い論証を好む読者には嫌悪され、途中で読むのを放棄されるかもしれない。だが、読み進めるうちに、著者の偽悪的とも映るその手法が、実はまったく反パソコン的でもなければ、反論証的でもなく、逆に、パソコンを使って調べものをし書く人であれば、普通に使っている手法だということに気がつく。あるキー概念を思考の繋ぎとして複数のテクストを照らし合わせ、その積み重ねが、一つの仮説的な絵を描く。その絵が妥当性を持つかどうかは、また別のテクストとの対照によって確認される。
これは、実は仮説と検証という通常の論証作業とかけ離れたものではないし、また、膨大なテクストがデジタル・データベースとなりつつある現在、キー概念を検索ワードとしたパソコン時代の論証作業は、著者の手法と大差なくなりつつある。
もちろんパソコンは万能ではないし、そこから取りこぼされるものも多い。おそらくそのことに自覚的な著者だからこそ、諧謔的な野蛮さを装ったのだろう。