ネット界隈では、原作がピエール・ブールの捕虜体験に基づいた小説であるから、
映画も原作と同様に東洋人(なかんずく日本人)への差別と蔑視でいっぱいだ
という仮説が通用しているが、
少なくとも映画版に関してはそれは外れている。
映画版の『猿の惑星』シリーズは、
人種差別の構造が逆転するという、SFならではの機知に満ちた傑作である。
とくに低予算の第4作目から5作目の物語の下敷きは、
明らかにアメリカ国内の有色人種(なかでも黒人)の問題であって、
彼ら猿人のモデルは日本人や東洋人ではない。
このSF映画の傑作の呼び声が高い第1作は、
英知によって発展しているはずの未来社会がまさか猿人たちの支配する星であるという、
悪夢のようなディストピアを描いているのだが、
逆に言えば、人間が社会化する過程がどの動物にも当てはまる可能性がある、
という予見に満ちている。すなわち傲慢を戒める映画である。
星を支配している猿人たちのモデルが、
東洋人であろうと、あるいは黒人であろうと、はたまた別のものであろうと、
蔑視しているものに社会を奪われるという革命は起こりうるものであり、
それは理不尽でも何でもなく、
宥和なき社会に起こる紛争と権力闘争の結果だと言える。
映画版『猿の惑星』がラスト・シーンで示す衝撃は猿人に支配される社会よりも、
また別のショックに由来している。
世界を滅ぼすような馬鹿げた戦争への憎しみである。
ハリウッド映画が白人の優越を誇示する内容が多いことはよく知られているが、
『猿の惑星』シリーズはそうした内容ではない。
むしろ白人社会の愚かさを戒める内容になってゆくことで面白さを発揮している。
この作品が示した猿人社会というのは、
人間のなかの愚かさの戯画であって、
猿人が何人をモデルにしているかなどということは、まったく関係ない。
猿山のなかのボス争い同様に、智慧を使って戦争をしている人間たちの様が、
あるいは猿人世界を外から見た人間と同様の構図かもしれないというのが、
何よりもキーなのである。