かつてネコマンガというものを見た時衝撃を受けた。主に読者投稿だったと思うが、猫の写真にマンガのようにふきだしがついていて、セリフが書かれている、というシンプルなつくりなのに、なぜかそこに不思議な空気が立ち上っていたのだ。「んなことあるかいな」でなくて「こんなんありかも」という納得感というんですか。
「猫にかまけて」にはもっと衝撃を受けた。たとえば老猫ココアが、飼い主「町田さん」の腹の上で寝ていて、心地が悪く、抗議する様子はこんなふうなのだ。“あなたいったいなにを考えているの?わたしが腹の上でまどろんでいるのよ。それをあなたがごそごそ動いたりそんなごわごわの服を着てたんじゃ意味ないじゃない。バカじゃないの?あなたいったいなんのために生きてるの?わたしを腹の上に載せるためでしょ?”……猫語初の完全翻訳、といった趣じゃないの?
私たちの文学的偶像町田康も、猫に相対すると、猫を載せるための台であることに何のためらいもなく、日々猫の世話にかまけ、猫が衰弱すると、死に至るまで逃げることなく介護を続け、猫を看取ったあとも、もっとしてやれることがあったのではないか、と後悔する。
猫について、町田氏は神仏に近い存在だと考えることもあるようだ。“人間の利己的な欲望の犠牲になっている弱いもの、小さいもののまなざしは私たちを試すまなざしなのではないだろうか”という文章に触れて、ふと既視感を覚えた。そうだ、氏の「告白」の主人公熊太郎は、美しい妻・縫の無欲な態度やまっすぐなまなざしに接して、彼女が神仏の化身ではないかと考える。“縫はこの世に住まう者の意志を試すために神より使わされたもの”……そうか、縫は猫だったのだ!……もっとも縫は、終盤見苦しいふるまいで、生身の“女”であることが露になり、悲惨な最期を迎える。最期まである種の聖性を失わず、気高いまま生き続ける猫は、町田氏にとっての菩薩なのだろうか。
それにしても、町田康、金井美恵子、笙野頼子と猫に耽溺する三人の作家が、類まれな文章家であるのは偶然かな。