赤松オジサンの「用学」は官制学の学び舎には馴染まないが、たとえ路傍でも仕事の合間にでも似合うものだ。アカデミックな考証に証拠集め、その整理、仮説もついて論となり、食い扶持にもなる、それとは趣が違う。色、食、財をあからさまに語る、つまり舌の上下である「話」ではなく、吾を言う「語り」が愉しい。語るほうも悦にいっている。これをエスノペタゴジーでいう継承である。ここに赤松氏の一線を極める矜持があるなら「魂」の継承、それを古人は教育といった。
巷間、このような話は不良がするものだった。子供の頃近所の優しいヤクザが刑務所の生活や女遊びの逸話を面白く話していた。きまって後は「悪いことをするなよ」とテレていた.
意外と一生を左右した。馬の気持ちがわかるか・・、と言われればギャンブルには手を出さなかった。
赤松オジサンの語りは懐かしい不良の香りがする。
人間考学ではその他に「魔窟、大観園の解剖」佐藤慎一郎、がある。
肉体的衝撃を回避したり、地位、名誉、財力、学校歴を追い求めると理解の淵にも届かないが、赤松、佐藤両氏も趣は異なるが、今はない身学という己を養う学風がある。
土壇場に用となる真の教養であろう。とくに人の情緒の発生を大切にしている。なぜなら真に頭の良いという事は「直観力」だからだ。