青年時代の一時期に、自らを高めてくれる異性と巡り合うことは、
宗教的人格の持ち主にとって、確かに重要なことであるかもしれない。
ただ、「頭脳の恋」、すなわち、相手のなかに自己の理想の反映を見出し、偶像として祭り上げてしまうことは、相手に対し「あるべき姿」を無意識のうちに求める行為でもある。
アリサの悲劇は、ジェロームがアリサに対し、信仰の導き手としての役割を認め、
最後まで、そこから離れることができなかったことにある。
ジェロームの問題は、信仰という問題に関して、アリサヘの愛の延長線上に、神への愛を認めてしまったことにある。
アリサヘの愛を離れて、神への愛を考えられなくなってしまっているのである。
これは、生身の肉体を持つ女性にとっては、酷な話であるだろう。
アリサの死後、アリサの遺言から、ジェロームに贈られた「アリサの日記」のなかには、複雑で生々しい葛藤の跡が見出される。
ジェロームを通じて、信仰における徳を求める心情と、ジェロームの愛を求めながらも、それを否定し受け入れることのできない心情。神をも呪う心情。
これは、ジェロームの求めるアリサが、人間としての真実のアリサそのものではなく、宗教的な意味で理想化された、記憶のなかにおけるアリサであったことを意味している。
人間としてのアリサは、年月を重ねるに従い、若さを失う。
ジェロームが記憶のなかで見詰めている若々しいアリサは、現実には徐々に失われていく。
ある段階を過ぎれば、もはや、導き手としての役割を果たすことはできない。
しかし、ジェロームは、アリサを信仰における徳の導き手として祭り上げ続けるのである。
アリサがジェロームの愛を受け入れるということは、同時に、ジェロームにとっての理想であり続けなければならないという重荷でもある。
けれども、本当に求めていることは、生身の人間として、女性として愛されることなのだ。
ジェロームの愛は、アリサを高め喜ばせると同時に、苦しめ拒絶させるのである。
アリサの苦悩に比べて、ジェロームを愛しながらも別の男性との結婚を選んだジュリエットの平凡な幸福が際立っている。