舞台は1980年代末のルーマニア。反体制的とみなされた小学校教師のアディーナは秘密警察による家宅侵入や盗聴の影に脅かされるようになる。彼女につきまとう秘密警察の男パヴェルは彼女の親友クララとつきあい始めた人物だった…。
今年のノーベル文学賞受賞者に決まったヘルタ・ミュラーの、今のところ唯一日本語で読める作品と聞き、図書館で借りて読んでみました。
350頁強のこの小説は大半の文章が現在形で書かれた、日常の断片のモザイク画のようです。秘密警察による監視国家の苛烈な現実を描くように見えて、どこか現実味を欠いた幻想的な色彩も帯びており、ともすると物語がどこへ向かうのか焦点の定まらないような気がして、読んでいて退屈に感じることも一度ならずありました。
秘密警察による監視国家といえば近年は東ドイツのシュタージを軸とする映画や小説が発表されていますが、そうしたもののほうがサスペンスフルで、少なからずエンターテインメント色も持ちながら独裁国家の恐怖を描いて興味深い作品に仕上がっているのが一般的な気がします。
それに比べるとこのミュラーの作品は純文学に過ぎるのでしょうか、必ずしも楽しい読書体験を与えてくれたとはいえません。
終章ちかくになり、89年のチャウシェスク大統領夫妻処刑という一大事件が起こるあたりから、物語を読む私の眼前に歴史の現実がまざまざと蘇る思いがして、あの激動の時代を思い返しながら読みました。当時テレビで盛んに映し出され、今も目に焼きつく独裁者夫妻の屍(しかばね)の映像と、この物語の終幕が重なり、なんとも重苦しい思いがしました。
*「ロシアのキール文字」(47頁)とありますが、「キリル文字」というのが正しい呼称です。