20世紀は、イデオロギーを問わず大量虐殺を経験しました。
我々(特に欧米人)は啓蒙の先端を走っていたのではないのか?
なぜこんなことをしてしまったのか。
フーコーは、この現実を受け止め、
「われわれは皆、狂ってる」ないし「狂気を十分に残している」
と判断せざるえなかったのだと思います。
そしてフーコーは、言語に尽くしがたい大量虐殺を真摯に受け止め、
自分たちはいったどこで間違えてしまったのか、という問題を突きつめようとし、
それをこの『狂気の歴史』でまず明らかにしたのだと思います。
もちろんこのような意図は同書の序論にもありません。
いわば、同書のさらなる文脈はこうじゃないかと思うわけです。
さて、フーコーは、その発端を、
輝かしい理性の勝利の時代とされる17世紀(新古典主義の時代)の後半の
「狂人の画一的な監禁」、に見出します。
そして、その原因の探求にも力を注ぎます。
その時代に狂人の扱いが一変することを明らかにするため、
本書は「狂気の歴史」を描いたわけです。
ただ、狂人への対応が間違っていたことが最終的な問題ではなく(もちろん問題ですが)、
真の問題はそのときの理性のあり方であり、
それが現在まで引きずられていること、だと思います。
本書は、細かい活字の二段組みで600ページを超える大冊ですが、
これはこの問題の解明に向けられたフーコーの情熱を表しています。
権力を糾弾せず、政府や大企業に批判の矢を向けることもなかった
フーコーが、サルトルの後継者のような知識人とみなされたのも、
彼のこういった根本的な姿勢のためでしょう。
右だ左だということに本質的な問題を見ていなかったのです。
この本では、フーコー思想のキーワード(知、権力、主体、等々)は、
まだ前面に出てきませんが、それらがどういった文脈で捉えられているのか、
ということがよく見えてきます。もともと歴史家的側面の強い方ですから、
いつくかの概念だけに彼の思想を分解することはあまり賢明ではないと思います。
※なお「狂人」は差別用語ですが、本書で使用されているため、
この感想文でも使用させていただきました。