故高木軍報道員の書いた物には信憑性がある。なぜなら、彼は実際に特攻基地に赴き、出撃直前の隊員達と「時」を過ごしているからである。あの「きけ わだつみのこえ」の冒頭に遺書が載った上原良司(享年22歳、慶応義塾大学経済学部からの学徒兵)と仲間の隊員達(全員が東大、京大、早稲田などからの学徒兵)が南薩摩の知覧にいる頃、高木さんも仕事で知覧へ行った。そして、出撃前夜、三角兵舎にいた上原良司達に、「何でもいいです、書いて貰えませんか。」と頼んでいる。
三角兵舎の中は、薄暗く、湿度が高い。外も南国の5月であるから蒸し暑い。そんな中で、第56振部隊の生き残っていた隊員達は、飛行服に身を包み、汗だくになりながら静かに日の出を待っていた。ある者は遺書や手紙を書き、ある者は煙草を吸い中を見つめ、ある者は自分のあまりにも短い人生を振り返りながら唖然としていた。そこへ高木軍報道員が入って来たのだ。「青春の真っ只中」にいる筈の若者達のこの惨めで、あまりにも残酷な最後を、美化せず、賛美せず、英霊などと煽てず、正直にそのままの彼等の姿を記録に残してあげたいと思ったのである。それが彼等へのせめてもの「はなむけ」となる事を望んだ。特攻隊員とは、極普通の家庭の、極普通の青年達であった。戦争がなければ、今頃は大学で猛勉強をし、恋をしていたであろうに。戦争に狩り出され、「特攻作戦」という史上、前代未聞の自殺紛いの死を強制させられていた。彼等のその気持ちをどう理解してあげられようか。しかし、「英霊達の勇ましい姿を記事にして来い」というのが高木軍報道員が受けていた仕事命令だった。戦況が最悪な状況にあった昭和20年5月初頭の話しである。この悲しい事実を克明に記録したのが、この書物である。