タイトルの「無限小解析」は、解析学に対する古い呼称の意味ではなく、A.Robinson の創始になる nonstandard analysis (以下NSAと略す)を指す言葉として使われている.
NSA は、バークリー僧正などによる、その存在の不合理性に関する鋭い批判もあって、一度は解析学から追放された無限小の概念を、数学基礎論の手法を使って、制限は残るものの、数理論理学の力で合理的に復活させたものと言える.NSAは、通常の解析学では極限を含む操作が必要な議論の多くを、ごまかしではなく、有限性に関する議論で置き換える事を可能にするという利点を持っている.
A.Robinson の理論は高階タイプ理論に基づいていたが、現在では、NSA の基本的な原理はモデル理論でいうところの elementary embedding によって簡潔に説明されることが知られている.
NSA の日本語の本は斉藤正彦、M.デービス、中村徹などによって出されている.彼らの本のタイトルには、竹内のそれと異なり、「超準解析」という斉藤によるNSAの訳語が含まれている.これら「超準解析」(という言葉をタイトルに含む)本では、ultraproduct を使って標準モデルから nonstandard なモデルを構成しているのが特徴である.これに対し、竹内ではそのような導入部分は省略して、幾分公理的に standard model と nonstandard model での意味論の関係を導入している.これらの公理の導入は、明示的に書かれているわけではないが、上で触れた elementary embedding 等の知識と理解を前提としているとしか思えないやり方で、評者の印象では、いささか乱暴になされる.
この本には初等的な微積分を NSA で見直してみせるような話は載っていない.公理を導入してすぐさま Loeb測度の構成や伊藤積分、確率微分方程式のNSAによる扱いに移ってゆく.著者としては、上記の「超準解析」系の書物で扱っているような事をわざわざ自分が書く必要はないと判断したのかもしれないが、その意味で、この本は全然素人向きではない.NSAの実践においては二つの意味論的解釈を交錯させる操作が出てくるが、この際に記号を混同しない事が重要になる.竹内の本では、印刷上の複雑化を防ぐために、誤解を生じる恐れなのない限り記号を共通化するように(きちんと宣言した上で)書いている.この点もまた玄人向きである.
本人もこの本を H.J.Keisler の、NSAによる確率過程のモノグラフを読むための準備的な本と位置づけている.つまり、H.J.K. を読みたいと思うような人が想定読者だということである.
タイトルにある「物理学」は、物理学者の行うような(数学的には乱暴な)無限小の操作が NSA によって正当化される、という消極的な話ではなく、むしろNSAこそ物理的な思考が行われる(べき)適切な舞台であるという著者の主張からきているらしい.
まとめると、この本はすでにモデル理論(の非常に初歩的な知識)とNSAについてのある程度の理解をしている人(ほぼ玄人?)が読む本である.確率過程のNSAによる扱いを知りたいだけならば、釜江哲朗や上記中村の本を薦める.自分のレベルと目的には合わず、役にも立たなかったが、こんな売れなそうな本を出した出版社の努力に敬意を示して★三つを付ける.