歴史作家による教祖伝。
剣や武の世界とは百八十度違う世界だが、何か作家が法然と親鸞に真剣勝負を挑んでいるかのような臨場感、緊張感、切迫感、正に法然と親鸞に己を切らせるような錯覚を覚える作品になっている。
問題だと思ったのは、仏教の生きとし生ける者みなを救うということにまでは至らず、現世のそれも人間のみを救う事にだけ集中していたのではないか、と思われることだ。現在の凡夫、それも愚人悪人と言わねばならぬ者まで救う道はないのか、と問い詰め突き詰めることは、ともすれば過去や未来、人間以外の生き物への視点を失ってはいないか、ということである。
しかし、これは、法然・親鸞の時代をあまりに知らなさすぎるからだ。飢饉・疫病・戦争の時代にあって、それは普通の人々が飢え苦しみ死んでいった時代だったのだ、ということに尽きよう。師弟争わず、あの時代から教祖として屹立し現在まで心の拠り所とされているのは、何を救いにせねばならないかを飢えた者も殺した者も共有できる次元で明確に示さねばならないとして実際にそうしたからだ。
念仏(阿弥陀を意識した言葉)を唱えただけで救われる、ということは、それだけの力がその言葉にはなければならない、あるはずだと法然や親鸞自身が信じる力をこそ逆に個々万人に共鳴喚起させようとしたものだとも言えよう。
下巻は関東への布教から始まる。