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そして、海や山などは昔から入会権を認められていたけども、そうした無縁という原理が生きる場所が公界(くがい)である、と。互いに独立した人格を持つ自由人として、パブリックな場所で生きていった人々はいたし、能役者や桂女などの生き方はまさにそれだし、ある狂言には登場人物が殴りかかられそうになると「公界者に手をだすとはなんと無体な!」と非難する場面もあり、後の河原者のようなネガティブなイメージではない、と。そして往生楽土、楽市楽座という言葉に残る「楽」って言う概念はユートピアそのものだと筆を進めていく。
その中で、改めて考えさせられたのが「勧進」という概念。これは橋をつくるとか、港の浚渫工事をやるための資金を集めるためのシステム。「勧進帳」で弁慶が白紙の巻紙を読みながら、勧進のために諸国を回っている山伏なんだ、と富樫にシラを切る場面があるが、そうしたシステムが中世にはあったし、出来たインフラは公界であり、それを維持するために関所料金などを徴収していたのは無縁の人々だったという展開は素晴らしかった。
そんな中で例えば「自由」という理念はヨーロッパ産のもので、我々には彼らとちがう文化、いわば、日本式の自由があるという。たしかに「自由」はもともと仏教用語であり現在とは全くニュアンスが違ったものであって、それをfreedomの訳語として(たしか福沢諭吉が)採用したのである。
しかしそこで明らかにされないのは、日本にもともとあった「自由」とはなんなのかということ。日本特殊性論の論者たちは、つきつめていえば、このことを明らかにしようともしていないのではないか。なされるのは「日本は○○とは違う」といった、否定論の反復のみである。
前置きが長くなったが、その問いに答えているのが本書かもしれない。たしかに網野は楽や公界をユートピアとして提示してはいる。しかし彼の描き出す中世社会の「自由」には、現代の我々が簡単にそのノスタルジーを投影することはできない。なぜなら、(一つだけネタバレしてしまうが)その自由は、「無主」という生き方でしか達成できないものだからだ。
もう一言。説得力ある歴史感をたてるには、実証だけでもなく、思想だけでもなく、その両方が必要なのだと、この本に教えられた。
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