キリスト教は教義で他教の信仰を禁じる。ならば相対論がないから、キリスト教世界の中の視点から無神論を語るのは、原理的な困難さを伴うかもしれない。
だからこそ、キリスト教社会の西欧で「無神論」が発生してきたことが、本の主題として意義があったのではないのか。
著者は「神の存在を信じてますか?」と問われて、「もし神の存在の確信が私に必要だと神が判断するならそのときが来ると思うので気にしていない」と答えたそうだ(267頁)。また家猫を見て、「自分より弱いものの自由と安全を守りたい」という欲求を覚え、この欲求は種の保存の生存戦略として自然選択された(267頁)といい、これを鍵概念として人と連帯すべし、との確信の下で生きるために、「神が姿を表すことが必要ならば現れてくれるだろう。」(268)という。
キリスト教の神は契約の神であることを踏まえないのか。進化論は旧約の創世神話と対立することを忘れたのか。
西欧社会の「無神論」は、その時がくるというような視座から捕捉できる問題ではなく、凄絶な闘争の問題だったのではないのか。
前半は「無神論」の歴史を辿る。しかし「無神論」という不変の概念が時代と地域を貫いて存在してきたわけもない。「無神論」という言葉は定義してから用い、時代と地域による概念の変遷をも論じる位の丁寧さが必要だ。
第二部所収の「政教分離と無神論」は、本来なら全体の核となる章だろう。しかし(他の殆どの章と同様)出典の表示が一切なく、実際には史実に対する論考でなく個人的な思い込みの記述だと言われても仕方ない。
また、「キリスト教無神論」(例えば206頁)という奇妙な概念は、どこにも定義されないまま本書中に頻出する。
本書の記述には宗教的感情への配慮が感じられない。だから宗教的な葛藤の中で生まれてきた筈の無神論の核心へも、迫れていないと思う。
方法論に初歩的な不備のある本。